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2016年7月12日火曜日

巽孝之著『盗まれた廃墟 ポール・ド・マンのアメリカ』を読む

巽孝之著『盗まれた廃墟 ポール・ド・マンのアメリカ』を読む



巽先生の掲題の著書を拝読。思うところを思うままに、とは言へ此の博識に裏打ちされた本を全面的に論じることなどとても私にはできませんので、やはりこうなれば安部公房の力を拝借して、安部公房の世界から眺めたら、一体ド・マンの世界はどのように見えるかということを書いてみたいと思います。同書を読みながら、やはりあちこちに付箋がつき、感想や備忘の入るところが多々あるのです。

ド・マンはベルギー人ですから、ドイツとフランスに国境を隣接していますので、これらの国の言葉には堪能であったでしょう。出版業を営み、商業の世界にいたのであれば、尚更です。

1959年に、ドイツの詩人ヘルダーリンの『ライン河』という詩を論じています。ヘルダーリンという詩人は、三島由紀夫が十代より晩年まで愛読愛唱した詩人で、自然を歌っておりますが、それが単なる叙景でも叙情の詩でもなく、高度に象徴的な域に達した詩、即ち、自然の中にあり自然を構成する要素である海や河や川や果樹園や山や山巓や空や風や帆船や町や人間たち、男や女やらが、皆その名前を呼ばれると隠喩かと思われるほどの表現になっており、またいや、それは隠喩ではなく、やはり日常に見える対象であると思ってみても、そうなると此の日常の姿が全く普通の日常ではなく、実に豊かな何か、生命の横溢であることに気づくような、そのような詩になっております。

上で三島由紀夫の名前を出しましたのは、日本の作家としてヘルダーリンが好きだったということと加えて、その自刃の1週間前の古林尚のインタビューで、三島由紀夫自身が自分を浪漫主義者だと言い、どんなに人に笑われてもいい、十代の抒情詩人に「ハイムケール」(Heimkehr)するのだといっているからです。

ハイムケールとはドイツ語で、故郷(ハイム)に帰る(ケール)ことを言います。

浪漫主義とは、どのような考えであり感じ方かといえば、三島由紀夫の文学を見、ヘルダーリンの詩を見ますと、一言でいえば、ロマン主義とは、青春を歌うことです。それが過ぎた青春であれば、否青春は常に過ぎるわけですが、それを単に懐古するのではなく、常に現前するものとして歌うのです。ヘルダーリンの自然を象徴的に歌った詩の主題も青春であり、常に現前する現在の一瞬一瞬の河の流れである青春なのであり、豊饒の海へと注ぎ行って、この源泉の海へと回帰するのです。これは、三島由紀夫の好きだった同じヘルダーリンの『追憶』という詩の主題です。

巽先生が東京堂書店での対談の場にて配付された英文の引用集の5)によるド・マンの言葉によれば、これは既に、ドイツ語のUmkehr(回帰)の運動(movement)という言葉を用いて、以下のように再帰的な精神の繰り返しの運動を論じています。再帰的な人間、即ち自己が生成したテキスト以外のテキストからは引用しない人間は、ナルチスなのでありましょうか?

“Narcisse’s contemplation is precisely the contemplation of the self as a natural object and enjoyment of the spirit as if it were a material substance.”

この一行は全く回帰と再帰と差異に関する熟考から生まれた一行ですが、同時にまたas if以下の(英文法ならば)非現実話法で書かれた条件文が深い意味を持っています。

同じく配付された日本語によるド・マンの詳細な年譜によれば、1971年にド・マンは『真実の配達人』という批評文を書いています。この題名からして既に差異を求めて熟考した(comntempaltion)17世紀のバロック時代のヨーロッパの人間たちに最初から通じております。

何故ならば、安部公房の世界と同様に、配達するということは、典型的には郵便配達夫でありましょうが、しかしこの職業は当時ならば王侯の命令に基づいて、受取人に郵便物(音信)を配達する職業ですし、それがバロックならば、喪失した対象に郵便物を届ける職業でもあるからです。そうして、国境を越え、旅をし続け、さて求めた受取人は果たしてどこにいるのでしょうか?

『真実の配達人』という意味が真実を配達するという意味なのか、それとも、配達人が真実の、本来本当の配達人だという意味なのか、日本語からは解釈が二色ありますが、後者である場合には、贋物と本物という差異を問題にする安部公房の主題のひとつになるでしょう。求めて至ってみれば、そこもまた贋の世界(存在の世界)、非現実の世界だということになるのです。例えば、『燃えつきた地図』の探偵のように。

上に引用した5)の文章中には、ヘルダーリンの他に、再帰的な人間として、ランボー、ルソーの名前を挙げています。そして、この文章を読みますと、ド・マンの批判の対象は、当時の現代ヨーロッパであり、遡って近代のヨーロッパのものの考え方であることがわかります。次の文を引用してお伝えします。

”Hoelderlin himself is not the poet of this truly nationally Western art, but rather the poet of the Umkehr, of the movement by which the romantic sensibility turns away from its original ideal.”

”Hoelderlin himself is not the poet of this truly nationally Western art”というのは、ヘルダーリンは古代ギリシャという多神教の世界に憧れ、その世界を歌いましたので、この通りの詩人ですし、上に言及しましたように『追憶』という詩では、全く”the poet of the Umkehr,”であることも、その通りなのです。

このように考えて参りますと、ド・マンが、故郷ベルギーを「文書捏造、詐欺、横領によりド・マンに五年の禁固刑および罰金という」罪を逃れてアメリカに逃亡したのは、イヴリン・バリッシュの書いた伝記の題名が『ボール・ド・マンの二重生活』とあるように、全く二重の、または二重に、裏返しの関係を故郷に対して持ち、また文学、特に隠喩に対して持っているということになりましょう。象徴的な言葉で書かれた、隠喩が隠喩の域を超え、隠喩が隠喩ではもはやなくなるまで言葉を使うヘルダーリンを、この詩人の回帰という主題と相俟って、ド・マンが論ずる十分な理由があるのです。

上のヘルダーリンに関するド・マンの言葉で、そのようなオリジナルのものから、謂わば逃走し脱出する感受性を”the romantic sensibility”と呼んでいます。これが、本来は論理に徹して思考すれば差異をバロック様式の問題として論ずることになるものを、そうではなく、差異をロマン主義的に、即ち一言でいえば、ロマン主義とは、青春を歌うことですので、それが過ぎた青春であれば、否青春は常に過ぎるわけですが、それを単に懐古するのではなく、常に現前するものとして歌うことを、ド・マンは愛し、そして其の愛を批評し批判するのでしょう。

そうして、叙情ではとても論理に裏打ちされた批評にはなりませんので、そこでdeconstruction(脱構築)という、ジャック・デリダの差異化と統合化の論理に魅せられたのではないでしょうか。

今、デリダを含め、私が同じ傾向の思想家たちの名前を挙げると次のような人たちがいます。

1。フランス
(1)ジル・ドゥルーズ(1925年1月18日~1995年11月4日):https://ja.wikipedia.org/wiki/ジル・ドゥルーズ
(2)ジャック・デリダ(1930年7月15日~2004年10月8日):https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック・デリダ

2。ドイツ
(1)ハラルド・ヴァインリッヒ(1927年9月24日~ )

3。アメリカ
(1)ド・マン(1919年12月6日~1983年12月21日)
(2)バーバラ・ジョンソン
(3)Yale学派の其の他の高名なお弟子さんたち

3。日本
日本のバロックの作家安部公房の名前を挙げることにしましょう。
安部公房(1924年(大正13年)3月7日~1993年(平成5年)1月22日): https://ja.wikipedia.org/wiki/安部公房

このようにしてみますと、ド・マンのお弟子さんたちは別にして、これらの人間たちは同じ時代、同じ年代、同じ時間を共有していたことが判ります。

ジル・ドゥルーズは『襞』と題した本を書いていて、こうなると全く安部公房です。ただしこの哲学者は微分のみに関心があり、安部公房のように積分を考えて言語を論じた哲学者ではありません。おそらく、そこには対象を細分し、差異を区分して求めてゆくことに意義のある、当時のフランスとヨーロッパの事情があったのではないかと想像します。或いは、単なる想像ですが、この考え方は、現実的な働き方としては、(今既に崩壊しつつある)EUの当時の統合の動きに抗うことをしたのかも知れません。

ハラルド・ヴァインリッヒという名前は日本では全く知られておりませんが(何しろドイツも敗戦国ですから、フランスの哲学者ばかりが日本に入ってくる)、ヨーロッパでは高名な哲学者です。

この哲学者は差異をやはり言語に求め(それは正しい、何故なら言葉の意味とは差異だから)、それを話法(mode)の問題として論じています。話法もまた差異とそれを接続する文法でありますから、例えば上の”as if it were a material substance”のように、現実と非現実を接続する、即ち変形の文法ですので、幾つもの魅力的な題名を持つ著書名を見ますと、これを専らにして論じていることがわかります。

巽先生の此の著作を論じ始めますと、これは恐ろしく広汎に論を張らねばならず、確かにたくさんの付箋をつけたのですが、しかし、それはとても論じ尽くすことがかないませんので、戦線を縮小することにいたします。

私の興味をひいたのは、デリダが父親の喪失との関係で、この差異と再帰性を考えたのではないかと思われるように[註1]、ド・マンもまた、父親との関係で何か問題を抱えていたのではないかということです。こんな通俗的な言い方は私の本意ではありませんが、父親に対して何か心理的なコンプレックスがあったのではないだろうかということです。

[註1]
デリダの『Pharmakon』(『Dissemination』所収)の 「2. The Father of Logos」と題した章に次の父親が出てきます。(『Derrida Dissemination』continuum社、London・New York)

”The pharmakon is here presented to the father and is by him rejected, belittled, abandoned, disparaged. The father is always suspicious and watchful toward writing.(略)

Not that logos is the father, either. but the origin of logos is its father. One could say anachronously that the “speaking subject” is the father of his speech. And one would quickly realize that this is not metaphor, at least not in the sense of any common, conventional effect of rhetoric. Logos is a son, then, a son that would be destroyed in his very presence without the present attendance of his father. His father who answers. His father who speaks for him and answers for him. Without his father, he would be nothing but, in fact, writing. At least that is what is said by the one who says: it is the father’s thesis. The specificity of writing would thus be intimately bound to the absence of the father. Such an absence can of course exist along very diverse modalities, distinctly or confusedly, successively or simultaneously: to have lost one’s father, through natural or violent death, through random violence or patricide; and then to solicit the aid and attendance, possible or impossible, of the paternal presence, to solicit it directly or to claim to be getting along without it, etc. The reader will have noted Socrates’ insistence on the misery, whether pitiful or arrogant, of a logos committed to writing:”……It always needs its father to attend to it, being quite unable to defend itself or attend to its own need” (275e).

 This misery is ambiguous: it  is the distress of the orphan, of course, who needs not only an attending presence but also a presence that will attend to its need; but in pitying the orphan, one also makes an accusation against him, along with writing, for claiming to do away with the father, for achieving emancipation with complacent self-sufficiency.(略)”



デリダも確か父親を子供の時に亡くしております。他方、配付された年譜によれば、ド・マンの場合には1949年30歳になっても、ベルギーでの裁判所に父親が出頭しております。

しかし、奇妙なことは、この年譜にもその後の父親の死のことが、普通ならば書かれるべきものを、その記載がありませんので、どうも父親の影が、犯罪を犯したことに関する以外には、誠に薄いということです。それが、何かの宴席で、ベルギーの伯父の話に談たまたま及んだときに、それは自分の「実の父親」だと言った(同書103ページ)原因なのではないでしょうか。隠喩を詳細に論じた人間が、これを隠喩として発話したのでしょうか。どうも私にはそうは思われず、もう少し微妙な事情が伏在しているように見えます。

それは、defacementという言葉との関係で巽先生が会場でおっしゃったド・マンの言葉”revolving door of reading”に現れているように、そうしてご著書の95~96ページに描かれているように、revolving, revolution、それからrestorationという一連の語義と連想から言っても、このド・マンという人の語彙の選択には、何かこの人の叙情は再帰的な(脱走、遁走と裏腹の)回帰を思うと、政治的な関心に向かうという傾向があるのではないでしょうか。そのように思います。

最後に何故、アメリカ人が、それもベルギー人のド・マンがデリダを受け入れ、この外国人を介して、受け入れたかという理由を考えますと、私が既に『安部公房のアメリカ論』(もぐら通信第22号)で論じたように、アメリカは親のいない孤児の文化だからではないでしょうか。デリダが実際にそうであり、またしかしそうでなくとも、差異を連続的に求めるという着眼の論理は、これはバロックの世界の論理なのですが、この世界は(アメリカという国と同様に)座標のない世界を前提にしておりますので、文法で言えば、述語だけを重ねたような、そうして主語も複数にわたって幾らでも置くことのできる、そのような話法(mode)の問題でありますから[註1]、哲学と其の歴史を欠いたアメリカ人にとっては、誠に魅力的であったし、納得の行く論ではなかったのでしょうか。勿論、今でも魅力的でありましょう。何しろ私の上の論によれば、アメリカは贋の国、コーラやジーンズやハンバーガーやらの贋の文物の溢れる国なのですから。勿論本物とは、アメリカにとっては、歴史的な連続性の絆を切った筈のヨーロッパの文化であり文明です。詳細は『安部公房のアメリカ論』をお読みくださると嬉しい。

スーパーマンもまた両親を失った孤児であり、アメリカの男性と国柄の形象でありますが、「隠れ脱構築批評家(クリプト-デコンストラクショニスト)」(crypto-deconstructionst)というスティーブン・バリッシュが「自身の仕事を振り返って」自分自身を呼んだという箇所(同書18ページ)を読んだ瞬間に、スーパーマンの故郷の星の名前がKryptonであったことを思い出しました。ヨーロッパ人ならば、cryptoとは言わず、incognitoというところです。日本ならば、水戸黄門や遠山の金さんとか、落語ならば横丁のご隠居というところでしょうか。これ、逸脱もまた差異の然らしむるところ。

最後に、ド・マンが1959年にヘルダーリンの『ライン河』を論じたことから、私が即座に連想したのは、この人は海の好きな人ではないのだろうかということでした。

調べますと、ベルギーのアントワープは海に勿論面しております。この首都の市場(マルクト)は海からほんのすこし外れておりますが、ド・マンはどこに住んでいたものか。

また、アメリカに移住した後に教鞭を執った大学もまた、バード大学、コーネル大学、チューリッヒ大学、イエール大学とみな、海に面し、あるいは湖と河に面しております。

これが偶然でないならば、ド・マンは運の良い男だということになりましょう。例え故郷故国では犯罪者であり、また事実として重婚者であったにせよ。

このような罪ある人間を大学の教授にまでして受け容れるアメリカという国もまた、懐の深い国だと思いました。日本では有り得ないことでありましょう。

追記:
もぐら通信第47号(2016年7月31日付発行)にて、更に詳細に記述を加えて論じました。ご興味のある方はお読みくださると嬉しい。



















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