村上春樹の登場人物は何故指が一本少なかったり多かったりするのか
今歩きながら、Hart Craneと云ふ19世紀から20世紀初頭を生きたアメリカの、私の好きな詩人の詩の世界の男色者の隠語の事を考えてゐてふと思ったのですが、村上春樹の登場人物でよく指が一本減ったり増えたりしてゐる人間が出て来ます。
これは勿論baseball gameの延長戦でもはやGodに楽園を追放されて時間の中の世界を遍歴する人間として(これが「1973年のピンボール」の3フリッパーの「スペースシップ」と云ふ名前の(主人公が求めて遍歴する)basball game相当の機械モデルなのであり、その意味では「羊をめぐる冒険」も「スプートニクの恋人」も同質の物語なのですが)、野球とは別にアメリカ人は手を見た時に、手のひらではなく、指に着目するのです。
それは何故かと云ふと、5本の指に社会を見てゐるからです。それも、社会の中での意思疎通、コミュニケーションの姿を見てゐるからです。
この社会とは、家族でも良いし、会社でも良い。
そして、前者ならば、親指が父親であり、後者ならば、主人公のボス(上司)が親指であり、thumbと呼ばれます。Hart Craneの詩に後者の例のあるのを思ひ出しました。勿論、男色者の隠語(jargon)で書いてゐるわけですけれど。
何故か親指(thumb)が、父親やボスかと云へば、この指だけが他の指とコミュニケーションが自由にでき、交信が出来るからです。やってご覧なさい、他の指同士の交信はとても難しい。
親指トム(Tom thumb)と云ふ物語がありましたが、この観点から今大人になってから読み直すと、面白いのではないかと思ひます。今Wikiを見ますと、これはイギリスのお話で、アーサー王伝説に関連してある庶民の側での物語で、その概要を読みますと妖精が出て来たりして興味深く 探求するに値する世界だと思ひます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%8C%87%E3%83%88%E3%83%A0
しかし、その誘惑を振り切って話をアメリカに戻しますと、アメリカはイギリス人が移住して国を立てイギリスから独立した国ですから 、このイギリス人の習俗がそのまま伝わったとしても不思議はありません。
村上春樹は、アメリカ文学でのこの指の意味を良く知ってゐた。さうして、baseball gameの延長戦の中を放浪する男女に、延長戦は一点 お得失を争う展開でありますから、指の本数の引き算と足し算で、楽園を追放された人間の意味を割り当て、役割を割り当てた。何故?村上春樹は映画のシナリオライター志望の若者だったからです。その心は小説に生きてゐる。
やはり 村上春樹は小説を映画の画面の感覚で(カフカ賞受賞時の英語でのインタビューに小説の舞台装置や背景や景色は映画のセットなのかもしれないと言ってゐます)、そしてアメリカ人にとって神聖な旧約聖書の創世記の舞台であるbaseball game fieldと云ふ満場環視の舞台を念頭 に置いて、村上春樹は楽園を追放された男女の地上世界と地下世界の関係を描いたのです。
そしてその男女たちに、換喩の作家、即ち引き算と足し算の作家らしく、指を一本引けば地下世界の人間と云ふ役を女性には配役し、男については指を一本加へれば、地下世界の男である役を割り当てたのです。即ち、共に、この地上世界では、死者の役割を演ずる男女です。地下世界と地下世界、男と女、人称と話法の関係については 、「安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺める」をご覧下さい。
https://plus.google.com/115622145994037893840/posts/fmSaNQohTBa
処女作「風の歌を聴け」に登場する左手の指が一本ない若い女性は次のやうに書かれてゐます。地下世界から地上世界にやって来た、本来は死者である女性です。性愛を交換すると云ふ男女の死の儀式の性行為と云ふものの後に(この行為の描写はない)、作者は次のやうにこの女性を描きます。
「体はよく日焼けしていたが、時間が経ったために少しくすんだ色に変わり始め、水着の形にくっきりと焼け残った部分は異様に白く 、まるで腐敗しかけているように見えた。
(略)
僕は一杯に指を広げ、頭から順番に身長を測ってみた。8回指を重ね、最後に踵のあたりで親指が一本分残った。158センチというところだろう。」
この白い肢体の色は間違いなく 、多崎つくるの物語の死者であるシロなのです。村上春樹が深く愛し喪失した女性の肌の色です。「おむすびころりん」といふ別名「鼠の浄土」よ呼ばれる地下世界に棲む白鼠の白い色です。
このことを知った上で、次の第9章のはじめの主人公と一本指の無い若い娘の次の会話を読むと、その二重の意味、double meaning、意味の足し算の、換喩の二重構造に基づく会話は、一層感慨深いものと感ぜられます。記憶は時間を逆行することができるのです。時間は、できないけれども。これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の博士の考へ方でした。
「誰......あなたは?」
「覚えてない?」
上に引用した死者としてこの地上に現れた娘の一本足りない指のことの意味と、そして親指と小指で精一杯の指幅を広げてつくり、娘の「まるで腐敗しかけているように見え」る体を触って、即ち触覚を使って測り、男である主人公の親指一本分だけ残った其の親指の意味を考え合わせると、地上世界では引き算の結果残った値である父親としての主人公が、地下世界から来た死者としてある娘と、地下世界では性的不能者としてあり、地下世界では隠れた父親としてあれば性愛を交換することのできる男である事を示しています。
追記
今歩きながら、Hart Craneと云ふ19世紀から20世紀初頭を生きたアメリカの、私の好きな詩人の詩の世界の男色者の隠語の事を考えてゐてふと思ったのですが、村上春樹の登場人物でよく指が一本減ったり増えたりしてゐる人間が出て来ます。
これは勿論baseball gameの延長戦でもはやGodに楽園を追放されて時間の中の世界を遍歴する人間として(これが「1973年のピンボール」の3フリッパーの「スペースシップ」と云ふ名前の(主人公が求めて遍歴する)basball game相当の機械モデルなのであり、その意味では「羊をめぐる冒険」も「スプートニクの恋人」も同質の物語なのですが)、野球とは別にアメリカ人は手を見た時に、手のひらではなく、指に着目するのです。
それは何故かと云ふと、5本の指に社会を見てゐるからです。それも、社会の中での意思疎通、コミュニケーションの姿を見てゐるからです。
この社会とは、家族でも良いし、会社でも良い。
そして、前者ならば、親指が父親であり、後者ならば、主人公のボス(上司)が親指であり、thumbと呼ばれます。Hart Craneの詩に後者の例のあるのを思ひ出しました。勿論、男色者の隠語(jargon)で書いてゐるわけですけれど。
何故か親指(thumb)が、父親やボスかと云へば、この指だけが他の指とコミュニケーションが自由にでき、交信が出来るからです。やってご覧なさい、他の指同士の交信はとても難しい。
親指トム(Tom thumb)と云ふ物語がありましたが、この観点から今大人になってから読み直すと、面白いのではないかと思ひます。今Wikiを見ますと、これはイギリスのお話で、アーサー王伝説に関連してある庶民の側での物語で、その概要を読みますと妖精が出て来たりして興味深く 探求するに値する世界だと思ひます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%8C%87%E3%83%88%E3%83%A0
しかし、その誘惑を振り切って話をアメリカに戻しますと、アメリカはイギリス人が移住して国を立てイギリスから独立した国ですから 、このイギリス人の習俗がそのまま伝わったとしても不思議はありません。
村上春樹は、アメリカ文学でのこの指の意味を良く知ってゐた。さうして、baseball gameの延長戦の中を放浪する男女に、延長戦は一点 お得失を争う展開でありますから、指の本数の引き算と足し算で、楽園を追放された人間の意味を割り当て、役割を割り当てた。何故?村上春樹は映画のシナリオライター志望の若者だったからです。その心は小説に生きてゐる。
やはり 村上春樹は小説を映画の画面の感覚で(カフカ賞受賞時の英語でのインタビューに小説の舞台装置や背景や景色は映画のセットなのかもしれないと言ってゐます)、そしてアメリカ人にとって神聖な旧約聖書の創世記の舞台であるbaseball game fieldと云ふ満場環視の舞台を念頭 に置いて、村上春樹は楽園を追放された男女の地上世界と地下世界の関係を描いたのです。
そしてその男女たちに、換喩の作家、即ち引き算と足し算の作家らしく、指を一本引けば地下世界の人間と云ふ役を女性には配役し、男については指を一本加へれば、地下世界の男である役を割り当てたのです。即ち、共に、この地上世界では、死者の役割を演ずる男女です。地下世界と地下世界、男と女、人称と話法の関係については 、「安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺める」をご覧下さい。
https://plus.google.com/115622145994037893840/posts/fmSaNQohTBa
処女作「風の歌を聴け」に登場する左手の指が一本ない若い女性は次のやうに書かれてゐます。地下世界から地上世界にやって来た、本来は死者である女性です。性愛を交換すると云ふ男女の死の儀式の性行為と云ふものの後に(この行為の描写はない)、作者は次のやうにこの女性を描きます。
「体はよく日焼けしていたが、時間が経ったために少しくすんだ色に変わり始め、水着の形にくっきりと焼け残った部分は異様に白く 、まるで腐敗しかけているように見えた。
(略)
僕は一杯に指を広げ、頭から順番に身長を測ってみた。8回指を重ね、最後に踵のあたりで親指が一本分残った。158センチというところだろう。」
この白い肢体の色は間違いなく 、多崎つくるの物語の死者であるシロなのです。村上春樹が深く愛し喪失した女性の肌の色です。「おむすびころりん」といふ別名「鼠の浄土」よ呼ばれる地下世界に棲む白鼠の白い色です。
このことを知った上で、次の第9章のはじめの主人公と一本指の無い若い娘の次の会話を読むと、その二重の意味、double meaning、意味の足し算の、換喩の二重構造に基づく会話は、一層感慨深いものと感ぜられます。記憶は時間を逆行することができるのです。時間は、できないけれども。これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の博士の考へ方でした。
「誰......あなたは?」
「覚えてない?」
上に引用した死者としてこの地上に現れた娘の一本足りない指のことの意味と、そして親指と小指で精一杯の指幅を広げてつくり、娘の「まるで腐敗しかけているように見え」る体を触って、即ち触覚を使って測り、男である主人公の親指一本分だけ残った其の親指の意味を考え合わせると、地上世界では引き算の結果残った値である父親としての主人公が、地下世界から来た死者としてある娘と、地下世界では性的不能者としてあり、地下世界では隠れた父親としてあれば性愛を交換することのできる男である事を示しています。
男はそれが恐ろしくて地下世界へと降りて行くことが出来なかった。その死を他者に委ねてしまひ、後悔と罪の意識に苛まれるのです。ああ、あの時何故一緒に地下世界へと降りて行かなかったのだらうか? 僕は何故一緒に死ななかったのか?何故僕は生きてゐるのか?、と。
この僕を隠れたる父親としてあらしめ、さうある事を許してくれてゐる場所が。ジェイズ・バーであり、経営者のジェイであった。村上春樹にとっては換喩であるこの経営者とその場については、「Jとは何か?: 引き算と換喩の文学」と題して、稿を改めて論じます。
勿論、村上春樹の換喩の世界で、架空世界のジェイに隣接してゐる人間は、それほどに徹底的に、自分のこころの中で否定した村上春樹の、現実世界の父親なのです。
これを要するに、村上春樹の世界は、あの1978年の神宮球場でのD.H.体験以来、かくもdoubleなのであり、二重構造をしてゐるのです。あの時、村上春樹は、一行の文を書くと世界が二つ生まれると云ふ事を知ったのです。
この僕を隠れたる父親としてあらしめ、さうある事を許してくれてゐる場所が。ジェイズ・バーであり、経営者のジェイであった。村上春樹にとっては換喩であるこの経営者とその場については、「Jとは何か?: 引き算と換喩の文学」と題して、稿を改めて論じます。
勿論、村上春樹の換喩の世界で、架空世界のジェイに隣接してゐる人間は、それほどに徹底的に、自分のこころの中で否定した村上春樹の、現実世界の父親なのです。
これを要するに、村上春樹の世界は、あの1978年の神宮球場でのD.H.体験以来、かくもdoubleなのであり、二重構造をしてゐるのです。あの時、村上春樹は、一行の文を書くと世界が二つ生まれると云ふ事を知ったのです。
追記
上に述べた理解にもとづけば、何故処女作で、僕の(ジェイズバーで会って)親しい鼠と云ふ友人の書く小説に全く女性と性愛を交換しない主人公しか登場しなのかの充分な説明ができます。私の仮説は実際に有効ではないかと考へます。