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2016年10月30日日曜日

安部公房の読者のための村上春樹論:村上春樹の登場人物は何故指が一本少なかったり多かったりするのか

村上春樹の登場人物は何故指が一本少なかったり多かったりするのか

今歩きながら、Hart Craneと云ふ19世紀から20世紀初頭を生きたアメリカの、私の好きな詩人の詩の世界の男色者の隠語の事を考えてゐてふと思ったのですが、村上春樹の登場人物でよく指が一本減ったり増えたりしてゐる人間が出て来ます。

これは勿論baseball gameの延長戦でもはやGodに楽園を追放されて時間の中の世界を遍歴する人間として(これが「1973年のピンボール」の3フリッパーの「スペースシップ」と云ふ名前の(主人公が求めて遍歴する)basball game相当の機械モデルなのであり、その意味では「羊をめぐる冒険」も「スプートニクの恋人」も同質の物語なのですが)、野球とは別にアメリカ人は手を見た時に、手のひらではなく、指に着目するのです。

それは何故かと云ふと、5本の指に社会を見てゐるからです。それも、社会の中での意思疎通、コミュニケーションの姿を見てゐるからです。

この社会とは、家族でも良いし、会社でも良い。

そして、前者ならば、親指が父親であり、後者ならば、主人公のボス(上司)が親指であり、thumbと呼ばれます。Hart Craneの詩に後者の例のあるのを思ひ出しました。勿論、男色者の隠語(jargon)で書いてゐるわけですけれど。

何故か親指(thumb)が、父親やボスかと云へば、この指だけが他の指とコミュニケーションが自由にでき、交信が出来るからです。やってご覧なさい、他の指同士の交信はとても難しい。

親指トム(Tom thumb)と云ふ物語がありましたが、この観点から今大人になってから読み直すと、面白いのではないかと思ひます。今Wikiを見ますと、これはイギリスのお話で、アーサー王伝説に関連してある庶民の側での物語で、その概要を読みますと妖精が出て来たりして興味深く 探求するに値する世界だと思ひます。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%8C%87%E3%83%88%E3%83%A0

しかし、その誘惑を振り切って話をアメリカに戻しますと、アメリカはイギリス人が移住して国を立てイギリスから独立した国ですから 、このイギリス人の習俗がそのまま伝わったとしても不思議はありません。

村上春樹は、アメリカ文学でのこの指の意味を良く知ってゐた。さうして、baseball gameの延長戦の中を放浪する男女に、延長戦は一点 お得失を争う展開でありますから、指の本数の引き算と足し算で、楽園を追放された人間の意味を割り当て、役割を割り当てた。何故?村上春樹は映画のシナリオライター志望の若者だったからです。その心は小説に生きてゐる。

やはり 村上春樹は小説を映画の画面の感覚で(カフカ賞受賞時の英語でのインタビューに小説の舞台装置や背景や景色は映画のセットなのかもしれないと言ってゐます)、そしてアメリカ人にとって神聖な旧約聖書の創世記の舞台であるbaseball game fieldと云ふ満場環視の舞台を念頭 に置いて、村上春樹は楽園を追放された男女の地上世界と地下世界の関係を描いたのです。

そしてその男女たちに、換喩の作家、即ち引き算と足し算の作家らしく、指を一本引けば地下世界の人間と云ふ役を女性には配役し、男については指を一本加へれば、地下世界の男である役を割り当てたのです。即ち、共に、この地上世界では、死者の役割を演ずる男女です。地下世界と地下世界、男と女、人称と話法の関係については 、「安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺める」をご覧下さい。

https://plus.google.com/115622145994037893840/posts/fmSaNQohTBa

処女作「風の歌を聴け」に登場する左手の指が一本ない若い女性は次のやうに書かれてゐます。地下世界から地上世界にやって来た、本来は死者である女性です。性愛を交換すると云ふ男女の死の儀式の性行為と云ふものの後に(この行為の描写はない)、作者は次のやうにこの女性を描きます。

「体はよく日焼けしていたが、時間が経ったために少しくすんだ色に変わり始め、水着の形にくっきりと焼け残った部分は異様に白く 、まるで腐敗しかけているように見えた。

(略)

僕は一杯に指を広げ、頭から順番に身長を測ってみた。8回指を重ね、最後に踵のあたりで親指が一本分残った。158センチというところだろう。」

この白い肢体の色は間違いなく 、多崎つくるの物語の死者であるシロなのです。村上春樹が深く愛し喪失した女性の肌の色です。「おむすびころりん」といふ別名「鼠の浄土」よ呼ばれる地下世界に棲む白鼠の白い色です。

このことを知った上で、次の第9章のはじめの主人公と一本指の無い若い娘の次の会話を読むと、その二重の意味、double meaning、意味の足し算の、換喩の二重構造に基づく会話は、一層感慨深いものと感ぜられます。記憶は時間を逆行することができるのです。時間は、できないけれども。これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の博士の考へ方でした。

「誰......あなたは?」
「覚えてない?」

上に引用した死者としてこの地上に現れた娘の一本足りない指のことの意味と、そして親指と小指で精一杯の指幅を広げてつくり、娘の「まるで腐敗しかけているように見え」る体を触って、即ち触覚を使って測り、男である主人公の親指一本分だけ残った其の親指の意味を考え合わせると、地上世界では引き算の結果残った値である父親としての主人公が、地下世界から来た死者としてある娘と、地下世界では性的不能者としてあり、地下世界では隠れた父親としてあれば性愛を交換することのできる男である事を示しています。

男はそれが恐ろしくて地下世界へと降りて行くことが出来なかった。その死を他者に委ねてしまひ、後悔と罪の意識に苛まれるのです。ああ、あの時何故一緒に地下世界へと降りて行かなかったのだらうか? 僕は何故一緒に死ななかったのか?何故僕は生きてゐるのか?、と。

この僕を隠れたる父親としてあらしめ、さうある事を許してくれてゐる場所が。ジェイズ・バーであり、経営者のジェイであった。村上春樹にとっては換喩であるこの経営者とその場については、「Jとは何か?: 引き算と換喩の文学」と題して、稿を改めて論じます。

勿論、村上春樹の換喩の世界で、架空世界のジェイに隣接してゐる人間は、それほどに徹底的に、自分のこころの中で否定した村上春樹の、現実世界の父親なのです。

これを要するに、村上春樹の世界は、あの1978年の神宮球場でのD.H.体験以来、かくもdoubleなのであり、二重構造をしてゐるのです。あの時、村上春樹は、一行の文を書くと世界が二つ生まれると云ふ事を知ったのです。


追記

上に述べた理解にもとづけば、何故処女作で、僕の(ジェイズバーで会って)親しい鼠と云ふ友人の書く小説に全く女性と性愛を交換しない主人公しか登場しなのかの充分な説明ができます。私の仮説は実際に有効ではないかと考へます。

2016年10月29日土曜日

安部公房の読者のための村上春樹論:安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺める


安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺める
~村上春樹の人称と話法の問題を解く~


村上春樹は、自作の中の同じまたは類似の言葉をその後の作品の中に繰り返し引用してをります。例へば、 『ノルウエィの森』には、青豆も 「ねじ巻き」も出て来ますし、これはこのまま 『1Q84』にも『ねじまき鳥クロニクル』にも登場するのでせう。また、それ以外にも、引き算による登場人物の科白には、その引き算といふ演算に拠る論理に基づく科白が頻度高く出て来ます。

さて、繰り返しの言葉を青豆や 「ねじ巻き」の話に絞りますと、安部公房も同じで、猫は二つの小説の最後で同じcontextで、ほとんど同じ文章で、小説の最後に、即ち主人公が存在の中へと入ってゆく際に、往来の激しい道路でたくさんのトラックに轢かれてペシャンコになって煎餅のやうになつてゐます。

一つは 『燃えつきた地図』、もう一つは 『方舟さくら丸』です。 

何故猫がトラックに轢かれて死ぬかといふと、これも主人公の心と眼前に見える現実の景色を表してゐて、最後に存在の中に消えて行く主人公が、その猫の死によつて存在への方向を暗示され、また猫が轢死するのは、トラックといふ道路、即ち道の上を時間の中で疾走する乗り物によつて殺されるからです。 [註] 

[註1]
安部公房は自動車が大好きでした、何故なら自動車には、

(1)窓があるから、それから、
(2)バックミラーがついてゐて、
  1。前を見ながら後ろが見え、
  2。後ろを見ながら、前進できて、 
(安部公房は小学生のとき奉天の冬の吹雪が余りに厳しく、まっすぐ前を向いて歩けないので、後ろ向きに歩いて風を避けるために、後ろ向きで前進できる眼鏡を考へたことがあります。) 
(3) 『天使』や 『魔法のチョーク』や 『箱男』その他の作品に頻出するやうに、それは箱であって、即ち閉鎖空間であるから


安部公房は、三島由紀夫と同じ、再帰的な(recursiveな)人間で、つまり自分自身のテキスト以外のテキストからは引用しない人間、即ち合わせ鏡の中に棲む人間です。(この人間像については『安部公房の変形能力17:まとめ〜安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像〜』もぐら通信第17号)をご覧ください。)
まとめ

としてみれば、処女作で既に僕(一人称)が鼠(三人称)であったことからわかるやうに、鼠は僕の鏡であったのであり、このやうに考へて参りますと、村上春樹も再帰的な人間といふことになります。

さうすると、その後の 『ノルウエィの森』までの村上春樹の努力は、自分自身の本来人間として持ってゐる再帰性、この自己参照の合わせ鏡の世界である地上世界と地下世界の、また鼠(村上春樹)と白鼠(喪失した最愛の女性)の関係を、どのやうに整理して秩序立て、即ち虚構の物語に変形させて復活をさせ、其の人生を褒め称え、その霊を追悼し、その地上世界と地下世界との関係に有る其の関係をも含めて、これら全体をどのやうに荘厳するかといふ腐心と苦心であつたことが判ります。 

さうであれば、村上春樹の此のやうな作品世界を理解するために、同じ再帰的な安部公房の方法論である数学の世界のtopology(位相幾何学)を使つて、また其の言語機能論を使って、村上春樹の世界を解き明かすことができます。それには、次のやうなmatrixで考へるとよいといふことになります。つまり、安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺めるのです。

まづは、「奉天の窓」のblancの、白紙の、余白の、ご破算のmatrixです。(クリックすと大きくなります。)



また、これ以外にも此のmatrixの列の頭、行の頭に置くべき言葉があるでせう。さて、取り敢えず、行の頭の言葉を、これらの言葉だとして置いて見て、具体的な作品に当て嵌めてみると次のやうになります。

以下の「奉天の窓」のmatrixで、黄色のセルは、処女作『風の歌を聴け』で村上春樹が抱へてゐた小説家としての課題でした。これを8年後の評判作『ノルウエイの森』で如何に此の問題を克服したかといふことが明瞭に解ります。






このmatrixを眺めて判ることは、次のことです。

つまり、処女作は、一人称/三人称と地上世界/地下世界の物語であって、地上世界の僕(一人称)はーそして何より作者自身が直接にではなく、デレク・ハートフィールドといふ架空のアメリカ人の小説家を創作しなければ、つまり間接にでなければ、この物語を語ることができなかつた。即ち、

まづ何よりも作者自身が神宮球場でのD.H.体験」といふ「啓示」に基づく架空の媒介者・媒体を必要とした。

そして、処女作せは、地下世界の女性(死者)とは通信ができなかったのに対して、『ノルウエイの森』では、手紙(書簡)といふ媒介者・媒体を介して、地上世界/地下世界の男/女が、異人称同士で通信ができるやうになったといふことである。

書簡を使用するといふ事は、これは話中話の設定であり、劇中劇の設定と同じである。つまり、小説の中にもう一つ小説を設定するわけである。これは、文法的には話法(mode)の問題であつて、話法に話法を挿入する、即ち、主語である村上春樹の語る従属文の中に更に、主語を立ててその主語に従属文を設定させたといふ此の企(たくら)み[註2]よって、村上春樹は自分の小説制作上の欠点を克服したといふ事なのである。

[註2]
私は知ってゐる話中話の設定の例は、安部公房は頻度高く此の話法を使ひますので此れを外して、その他に成功してゐる例を挙げれば、谷崎潤一郎の『蓼喰ふ虫』や『蘆刈』があります。

安部公房は極く最初期の作品『白い蛾』(1947年、全集第1巻、211ページ、安部公房23歳)から、この話中話を使ってゐます。劇中劇についてはいふまでもありません。


この2人称を欠いた小説の書き方を、村上春樹は実に正確に「「すかす」ような書き方」と言っています。(『職業としての小説家』、271ページ)

そして、この欠点を克服しなければ、丸谷才一の批評してくれたやうな「深く大柄な小説」は書けないと考へたのです。(『職業としての小説家』、271ページ)

村上春樹は英語に堪能な日本語の作家として、十二分に此のことを知ってをりました。それが『職業としての小説家』で村上春樹が人称と話法についていふ次のことなのです。

「とくに小説が小説が長く大きくなるにつれて、「僕」という人称だけではいくぶん狭苦しく、息苦しく感じるようになってきました。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では、「僕」と「私」という二種類の一人称を章ごとに使い分けていますが、それも一人称の昨日の限界を打開しようという試みのひとつだと思います。

 一人称だけを用いて書いた長編小説は、『ねじまき鳥クロニクル』(一九九四・九・五)が最後のものになります。しかしこれだけ長くなると、「僕」の視点で語られる話だけではおっつかなくて、あちこちに様々な小説的工夫が持ち込まれています。他の人の語りを入れるとか、長い書簡をもってくるとか……とにかくありとあらゆる話法のテクニックを導入して、一人称の構造的制限を突き破ろうとしています。しかしさすがに「これがもう限界だな」と感じるところがあり、その次の『海辺のカフカ』(二〇〇二)では半分だけを三人称の語りに切り替えています。カフカ少年の章はこれまで通り「僕」が語り手になって話が進みますが、それ以外の章は三人称で語られています。折衷的と言えばそのとおりなんですが、たとえ半分であるにせよ三人称というヴォイスを導入することによって、小説世界幅を広げることができた――と僕は思っています。少なくとも僕自身はこの小説を書きながら『ねじまき鳥クロニクル』のときよりは、手法的なレヴェルで自分がずっと自由になっていると感じました。」

さて、上述の作者自身による解説の念頭に置いて、上の「奉天の窓」から再度村上春樹の世界を眺めてください。作者自身による解説の通りになってゐて、それが小説の登場人物同士の関係ではどのやうであるのかを容易に知ることができることがお分かりでせう。

さうして『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』の自作がどのやうに展開するのかもまた、予測がつくのではないでせうか。何故ならば、今までの村上春樹の世界に起こらないことは、次のことだからです。

1。地上世界の僕が、決して地下世界に降りて行って、地下世界の女性たちと話をしないこと。

2。地上世界の僕の隣人である言語障害を持つ男性や指の一本多い男性(ともに地下世界の男性が地上に出て来た者)や、それから指の一本少ない女性(地下世界の女性が地上に出て来た者)が消えた後も、その男性や女性とは通信をする意志が全くないこと。

3。上記1と2といふ作者の心理的な問題を克服した上で、僕といふ一人称と三人称の男女との間の通信が、処女作『風の歌を聴け』の場合のやうには直接話をすることがまだないといふこと。つまり、僕と鼠や、僕とジェイがさうしたやうには、処女作のあとの作品では直接話ができてゐないこと。

これら3つの問題を解決した小説が書けるかどうかが、今後の村上春樹の課題なのだと、私は思ひますが、あなたは如何?

つまり、baseball gameの規則を適用して云えば、果たして村上春樹は、三塁(3rd base)を廻って、本塁(home plate)といふ自分自身のふるさとに帰還して、即ち2塁には留まらずに3塁へ行き、3塁から本塁へと線を引いて、さうして、(またさうしなければ、)地上世界と地下世界の真ん中にある虚構の世界で永遠に『ノルウエイの森』の「直子」と一緒に暮らすことができるし、(さうしなければできない)、そのやうな小説が書けるかどうかといふことなのです。

それを果たすには、村上春樹は三塁打(a triple)を、あの嫌いなbatを持ってbatterとなって振らねばならず、ball、即ち(イスラエルでの文学賞受賞式の講演で、あくまでも卵につくと云った其の)卵を自分のbatたるシステム(壁)で、父親への否定の感情と論理を克服して、打たねばなりません。

これが、自分自身で創造して来た隠喩(metaphor)の、やはり、総決算になるのです。

しかし、baseball gameのルール・ブックには、自分の打ったballが、3塁から本塁に帰って来きた打者に帰って来るといふルールが果たしてあるのでせうか?

村上春樹は、いよいよ自分の規則で虚構の世界を創造しなければならないのです。さう、自らがGodにならなければならない。さうでなければ、父親を否定して来た此の作家は、やはり日本人として八百万の神々の世界に回帰する以外にはないでありませう。

その時に、村上春樹の世界は、汎神論的存在論の世界になる筈です。今は一神教のGodを前にして自己分裂してゐる。

隠し持って来た筈の、その古典の教養を生かした神話的な世界を創造してもらひたい。それは可能な筈です。何故ならば、旧約聖書に拠って作られたアメリカ人のbaseballといふgameの創世記は、隙間(夕方)から起算され隙間(朝方)で一つの単位として、天地創造の一日が計算されてゐるからです。

ここに、村上春樹の論理上の、また感情上の、矛盾と背理は解決されます。

何故ならば、これは此のまま、空間の隙間、時間の隙間から生まれる多次元宇宙を生涯書き続けた安部公房の世界の、天地創造の方法論でもあるからです。言語の問題としても、また。








2016年10月28日金曜日

安部公房、三島由紀夫、村上春樹の共通点

安部公房、三島由紀夫、村上春樹の共通点

村上春樹といふ作家をここまで深く理解をすると、安部公房との共通点、といふ事は三島由紀夫との共通点も思ふことができて、次のやうな三題噺ならぬ、三人噺をすることができます。

三人に共通してゐる事は、創作活動が、喪はれた尊い者への弔ひの感情に発してゐて、作品がいづれも死んだ人間のための祈念の墓碑となってゐる事です。そのために三人は三様に虚構を必要とした。どんなにその見かけが異なってゐたとしても。

1。安部公房
小学生の時からの友であり、若くして支那大陸で、「存在の中に消えていった」親友金山時夫の霊を慰め、追悼するために書いた。

[註]
満州の奉天で既に孤独な小学生であった事が判る事から、安部公房の自己喪失も一桁の学齢の時であった。これがこの作家の数学的な能力の獲得と裏腹であることが特徴的である。

2。三島由紀夫
遅くとも12歳の年齢の時までに喪失した自己の霊を慰め、追悼するために書いた。

[註]
12歳で出した詩集『笹舟』と短編小説『酸模』(すかんぽ)を読むと、そこには既に自己喪失が、さうして特に散文である後者には深い自己喪失が表現されてゐる。それ以前の10歳までに書かれた『初等科詩篇』には自己喪失はない。従ひ、この喪失は11歳から12歳の間に起こったものと推測する事ができる。

従ひ、よし詩人にならうと決心して編まれた詩集『HEKIGA』には、その決心と覚悟のほどが示されてゐて、詩作の腕が急激に上がってゐて、『笹舟』とはレヴェルが全く異なって、質の高いものになってゐる。

3。村上春樹
遅くとも15歳で知り合ひ、そして喪失した、最も愛した若い女性の霊を慰め、追悼するために書いた。

[註]
推測ではあるけれども、作品を読むと、既にやはり一桁の学齢の時に、父親に聞かされたか母親に聞かされたのか、また自分で本で読んだものか、『おむすびころりん』(別名『鼠の浄土』)の話を聞き、また知って、その家庭環境と相俟って、非常な恐怖心を抱いたことが、上の愛した女性の喪失と深く結びついてゐる。

このやうになるでせう。

また、それぞれの文学ということの特徴を、論理と譬喩と時空と形象いふ観点から挙げれば、次のやうになります。

1。安部公房
(1)積算の文学(仮説設定の文学
(2)直喩の文学
(3)純粋空間の文学
(4)私はもぐらである。

2。三島由紀夫
(1)積算の文学
(2)隠喩の文学
(3)純粋時間の文学
(4)私は蛇である。[註]

[註]
実は此の蛇は、全てのものを狩りとる鋭利な剃刀を持った理髪師であるといふ二重の形象(ダブルイメージ)になってゐる。

3。村上春樹
(1)引き算の文学
(2)換喩の文学
(3)「奇妙な」時間と「奇妙な」空間の混在した文学
(4)私は鼠である。[註]

[註]
実は此の地上世界での鼠(自分自身)は、地下世界では白鼠(喪失した女性)であるといふ二重の形象(ダブルイメージ)になってゐる。

更に、これら三人に共通する主題は、次の通りです。


1。不在の父親

また、この作家たちは、文学史で云はれる写実主義の、平凡な私小説(安部公房の言葉でいへば足し算の文学)の書き手ではなく、架空の小説、文字通りに空に虚構の現実を架ける作家でありますから、その作品形態は、架空の、幻想の、非現実のの形態をとりますので、最初の言葉を採用して、異論はあるでせうが、上のやうな語義に戻って考へて、ここでは、次のやうに代表させることにします。

2。架空小説

これから村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読みますので、更に此のリストは豊かになる筈です。勿論、私は安部公房の読者でありますので、加算ではなく、積算によって、この三人の一流の小説家たちのために、文学的な富を増やすことに致します。

追記

金山時夫の訃報に接する前に、安部公房の経験した喪失は、全部で次の5つです。

1。満洲国という安部公房にとっての祖国の喪失
2。奉天という圧倒的に幾何学的な町、即ち安部公房の古里の喪失
3。父親の喪失
4。安部家の喪失(父親の死による)
5。自己の喪失

そして、

7。親友金山時夫の喪失

この喪失が、筆を以って立たうといふ時に、最後にある喪失です。

安部公房が金山時夫の訃報を知ったのは、昭和22年、西暦1947年、東大医学部を卒業する前年でした。下記に引用する高谷治といふ成城高校以来の親しい友人宛の手紙が、安部公房の鎮魂と追悼の決意を示してゐます。

この思ひを小説にしたのが処女作『終りし道の標べに』です。この原稿を恩師阿部六郎にみせ、阿部六郎から埴谷雄高に連絡され、安部公房が郵送して(直接出版社に足を運びましたが、埴谷不在にて会ふこと叶はず)、文藝誌『個性』に掲載されて日本文学の世界に初めて登場します。

もぐら通信第33号『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~(後編)』より以下に当該箇所を引用して、お伝へします。安部公房という人間を少しでも理解して下さると、嬉しい。

金山時夫とは、このような親友であったのです。

「さて、こういうわけで、安部公房の作品の冒頭に登場する案内人は皆、安部公房の呪文によっ て呼び出された、存在の方向への立て札となっているのです。それが実は存在しない手記であれ、失われた名前の書いてある名刺であれ、とらぬ狸であれ、ニワハンミョウであれ、損傷した顔であれ、失踪した依頼人の夫であれ、失踪した男の書いた箱の製法マニュアルであれ、救急車に誘拐されて失踪した妻であれ、ユープケッチャという贋の虫(しかし「既にして」 存在になっている虫)であれ、カイワレ大根の生えた脛(「既にして」存在になっている脛) であれ、その他なんであれ。

このこころは、リルケの詩の世界からみると、リルケの詩の言葉の教える通りに、「予(あらかじ)め喪われたもの」を褒め称え、荘厳(しょうごん)するこころなのです。安部公房 は、リルケを本当によく読み、その詩想と思想を自家薬籠中のものとしました。金山時夫への鎮魂と弔意のこころと此の幼い時から私事を語った親友の蘇生と復活への強い思い、強い念は、どの作品にも、既に喪われた者との絶対的に超えることのできない「遥かな距離」の差異を0にすることで、自分の愛の真正を証明しようとする安部公房のこころを体した主人公となって、現れているのです。

「亡き友金山時夫に

 何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
 僕だけが帰って来たことさえ君は拒むだろうか。
そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につな がるのかも知れぬが......。」
 (『終りし道の標べに』全集第1巻、271ページ)

この思いが、作者の現実の私事の思いであり、

この思いが、作者の物語を語る(騙る)虚構の中に仮構する私事への、即ち存在の方向への思いなのです。

「 尚ほ、今の計画としては、金山の伝記を書き度いと思つてゐる。これは容易な仕事では ない。詩であつてもならないし、伝説であつてもならない。やはり、悩み、生き、そして最 后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友を、此処で再び永遠に生かさ ねばならないのだとしたら......」
(『高谷治宛書簡』全集第29巻、277ページ)

「悩み、生き、そして最后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友を、此処で再 び永遠に生かさねばならないのだとしたら......」、この最後の「......」という余白の中に安部公房の総ての作品は書かれているのです。その直前の「ならないのだとしたら」という接続法(非現実話法)という時間の無い、そしていつも過去形から生成される条件文を前提にして。

安部公房の作品の総ての主人公は、奉天の窓という差異を潜り抜けて、存在の中へと入って行く。」





2016年10月27日木曜日

安部公房の読者のための村上春樹論:村上春樹の「奇妙な」時間と「奇妙な」空間について

安部公房の読者のための村上春樹論

村上春樹の「奇妙な」時間と「奇妙な」空間についてお話しします。

それは、村上春樹の使う「奇妙な」と云ふ形容詞についてです。

結論を申し上げれば、この形容詞をつけた時間と場所は、死者のゐる時間であり、死者の棲む空間であるといふことです。「奇妙な」と来れば、それは常に死であり死者であるものが招来されるのです。これは繰り返し(人には知られぬやうに)、さういふ意味では呪文として、しかも名詞ではなく形容詞といふ従属的な、さういふ意味では目立たぬことばとして、何度も繰り返し出てきますから、読者は意識せずに読み過ごし、村上春樹の世界の死の領域に「いつの間にか」足を踏み入れることになります。[註1]

[註1]
上の段落で今「ことば」とひらがなで書きましたが、これは村上春樹は死者の世界の言葉である場合には平仮名で書き、生きた人間の世界の言葉である場合には、言語と呼ぶことは、既に述べたとおりです。

前者は、封印作『街と、その不確かな壁』での使用法であり(『文学界』P46ページ以後最後のページまで)、後者は、『職業としての小説家』での使用法です(P218)。村上春樹はこれらの用字法を明瞭な意識を以って使ひ分けてゐます。

前者の用字は地下世界での、後者の用字は地上世界のでコトバを意味してゐるのです。

前者の平仮名のコトバは、壁の中の、即ち死者の世界の、地下世界のコトバであり、後者の漢字のコトバである言語は、地上世界のコトバであるといふことです。

処女作『風の歌を聴け』ならば、前者は地下世界に棲む(一人称である僕と等価であり僕と等価で交換可能な三人称の)鼠のコトバなのであり、僕のコトバは同様に(鼠と等価で交換可能な一人称として)地上世界に住む生きた人間である僕のコトバだといふことになります。


『ノルウエイの森』(講談社文庫下巻)の最後の章である、主人公がレイコさんと自殺した直子の霊を弔う第十一章から「奇妙な」例を時系列順にひいてみませう。

直子の死んでしまったあとに主人公は旅に出ますが、そこは「奇妙な人々が充ち充ちてい」るのです(P248)。その前の「事象」には「不思議な」という形容詞が使われてゐますから、作者は意識的に意図的に前者の形容詞を選択してゐることが判ります。

主人公が山陰の海岸で「流木をあつめてたき火をし、魚屋で買ってきた干魚をあぶって食べ」、「ウィスキーを飲み」、「波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った」あとに来る一行は、「彼女が死んでしまってもこの世界に存在していないというのはとても奇妙なことだった。」のです(P250~P251)。[註2]

[註2]
直子が死んで、主人公が山陰海岸で「波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った」とあるのは、実際の現実の作者の本当に愛した女性が、高原の高さの中での首吊り自殺(P258)ではなく、海に身を投じて死んだことを暗示してゐると、私には思はれます。


旅から東京に帰って、もう一人の恋人である緑との電話の後に書かれてゐるのは、主人公が直子を思って次のやうに思ふところです。

「そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のやうに次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では死とは生をしめく来る決定的な要因ではなかった。そこでは死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままでそこで生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言った。「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」[註3]と。」(P252)

[註3]
「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」といふコトバは、封印作の第2章で太字で強調されてゐる、女性が主人公に語りかける次の言葉と互ひに照応してゐます。

「何故、何故あなたはにはわからないの?あなたが今抱いているのはただの影。あなたが今感じているのはあなた自身の温もり。なぜあなたにはそれがわからないの?」

かうしてみると、封印作はやはり「直子」が死んでゐながら、しかし生きてゐる死者の世界を「ことば」によってあらわさうとした作品なのです。しかし、この「ことば」は、人目に晒したくなかった。それほどに、村上春樹にとっては、「直子」は本当に愛した女性であった。

これを表に出すために、一人称と三人称の課題を克服するのに8年を要し、やっと『ノルウエイの森』で、これを実現することができた。この作品は、封印作と見事に照応してゐる村上春樹の納得の作品なのです。しかしまだイケない。何故ならば、『ノルウエイの森』は「言語」で書かれてゐて明るい(といふ意味では処女作以来の書き方の方針通りです)が、「ことば」によって書かれて読者の前に其のやうな、登場人物に死臭の臭ふ作品を提示することができないからです。『職業としての小説家』を読むと、この試みの手応えを村上春樹は多崎つくるの物語で得たといふことなのです(P259)。


そして山陰の海岸を主人公が「西へ西へと歩い」て行くといふ此の言葉は(P253)、やはり西方浄土のことが念頭にあって選択された言葉でありませう。同じ西の方向といふ言葉を、私たちは『若い読者のための短編小説案内』中、長谷川四郎の「長谷川四郎「阿久正の話」」の中で、長谷川四郎は「長谷川四郎はなにはともあれもっと西の方に行ってみたかったのではないか。そこに何があるのかを、自分の目で見てみたかったのではないか。そういう好奇心が彼の中に抑えがたくあったのではないか。僕は彼の作品を読めば読むほど、そういう気がしててならないのです。」と書いて、実は自分自身の心事を表してをります。かうしてみますと、私は未読ですが『国境の南、太陽の西』といふ小説の題名の太陽の西の方角もまた同様の意味であると考へられます。

そして、直子の死後主人公をレイコさんが訪ねてきて、主人公が「かつて僕と直子がキヅキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。」(P264)と思った後に、「奇妙に雑然とした庭」を主人公は眺めます。

「奇妙に」とある通り、この庭は死の庭であり、死者の庭です。

さうして、この章では此の庭の前後に主人公が「かもめ」と名前をつけた猫が二人の前に姿を現します。これは猫であるにもかかわらず、海辺に棲む鳥の名前で、それも色の白い鳥ですから、やはり多崎つくるの物語のシロといふ死んだ女性と同様の値を、作者は此の言葉に割り当ててゐることがわかります。

やはり、作者の愛した女性は海で死んだのではないでせうか。[註4]

[註4]
『ノルウエイの森』(上巻)に、次の箇所がある。

主人公が直子といふ愛する女性を其の療養所に尋ね、レイコさんといふ直子を支援する女性に言はれて二人のところから席を外して、外に出て、雑木林の中を歩く時に「僕は奇妙に非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のように、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。」(P232)とあり、また更に其のあとで、自分自身が病を得ている人間であるレイコさんが「ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。(略)そういう信頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの。そういう信頼感が存在する限りまずあのポンッ!は起こらないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんてすばらしいんだろうっておもったわ。まるで荒れた冷たい海から引きあげられて毛布にくるまれて温書いベッドに横たえられているようなそんな気分ね。」(P247)



その女性が死の庭に住み、レイコと主人公のところに、それも二人が買い出しに行ってかってきたすき焼き用の肉を欲しいと行って、二人を訪ねるのです。猫の食べる肉はすき焼きの肉かもしれませんが、この猫が直子の霊であると知った後では、もっと触覚と臭覚に訴える生理的に存在する死者だといふことになりませう。(実は、村上春樹の小説の世界を構成するために此の二つの感覚は非常に重要な働きをしてゐるのですが、これは別途稿を改めて論じます。)

さて、さういふ訳で、直子が遺書に書いて「洋服は全部レイコさんにあげて下さい」とレイコに譲って今レイコの着てゐる直子の服なのであり、その遺書の内容になにも書かずに直子が死んで行ってしまったことを、いつもの引き算をする場合の村上春樹の常として使ふ「そんなのどうだてっていいじゃない。」という言葉を口にして[註5]、更に続けて「もっと他に言いたいことは山ほどあったはずなのに」といふレイコに対して、主人公が「何もなかったのかもしれませんよ」(P268)といふ村上春樹の小説の作法である引き算を意味する此の言葉を主人公が返したのである以上、二人はそこに虚構の世界を創出せしめ、レイコは直子の霊になって主人公と交わることになりますし、また交わることの首尾一貫性が作者の中でも登場人物の中でも生まれて、そのやうに仕儀になるのです。

[註5]
『羊をめぐる冒険』の「水曜の午後のピクニック」と題した章に「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。」とあるのは、同じ論理で「一九七〇年十一月二十五日のあの奇妙な午後」に話が進行するからであり、それが「奇妙な午後」である限り、その時間は死者の時間である以上、三島由紀夫の死もまた死の世界の出来事しては「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。」と書く事になるのです。

また、水曜日は、村上春樹のBaseball gameの正確な理解によって旧約聖書の創世記の天地創造に則ったgameの規則である以上、天地創造の第三日目といふ意味になります。第三日目は、Godが年月といふ時間を創造し、太陽と月とそれぞれの光を昼と夜に配分し、そのやうに光と闇を分けた日です。

村上春樹が三島由紀夫と自分自身を、夜に配したのか昼に配したのか。三島由紀夫は真夏と太陽が好きでしたし、太陽めがけて飛翔するイカロスでありましたから、村上春樹は自らを夜と月に配したのでありませう。これは如何にも村上春樹らしい。


これが、村上春樹が「「心の闇の底に下降していく」と、そこには「太古と現代が入り交じってい」るという(『職業としての小説家』194ページ)、村上春樹の創作の考へ方を構成することの一つです。

それから、『職業としての小説家』の中で群像新人賞を受賞する直前に、傷ついた鳩を両手で持ち、交番へ届けた村上春樹が、此の時受賞すると確信したこと(同書、58ページ)の逸話が、その後の村上春樹の小説家の人生と其の作品の世界にどういう深い意味を持っていたかが、『ノルウエイの森』(下巻)の最後の最後のところ(P281)に書かれてをります。

そこを読みますと、自分とこの自殺した女性との関係を現実の世界では清算することになるし、そして両手に瀕死の鳩を持って交番に其の生死を委ねた「そのときに僕は間違いなく「群像」の新人賞をとるだろうと」実際にそれを直観して、「そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。(略)僕はなぜかそう確信しました。とてもありありと。それは論理的というよりは、ほとんど直観に近いもので」あったことであるのに対して、実際に群像新人賞をとり、(ここまでが現実の世界。これに対して)「そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収め」て書く小説の虚構の世界では、(ここからは虚構の世界)「僕は直子にずっと君を待っているって言ったんですよ。でも僕は待てなかった。結局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。(略)僕自身の問題なんです。(略)僕は自分自身に許しがたいものを感じるんです。レイコさんはそれが自然な心の動きであれば仕方ないって言うけれど、僕と直子の関係はそれほど単純なものではなかったんです。考えてみれば我々は最初から生と死の境目で結びつきあっていたんです」といふ文章、主人公がレイコさんに対して語る此の、物語の骨格が『ノルウエィの森』の結末にある限り、また結末にある以上(P281)、これら二種類の現実と虚構に関する村上春樹の文章を読むと、村上春樹はこの精神を病んだ娘を本当に愛したのであることが判るし、それ故に虚構の世界では変わらずに、この死んだ女性の死を根底にをいて、『直子とは何か?:村上春樹にとっての一人称と三人称の問題』と『ジェイとは何か?:換喩と引き算の文学』に述べる二種類の(A)と(B)の構図のうちに小説を書き続けなければならないといふことになるのです。

このやうに、両手に持った瀕死の鳩「直子」といふ女性であるとおもひ併せてみれば、偶然の暗合なのか必然の暗合なのか、あの「啓示」を得た神宮球場からの帰路道端で拾った此の「瀕死の鳩」が、村上春樹の小説に終始伏流水のやうに地下世界を流れてゐる水脈のやうな女性であり、その死であることが判ります。

いや、他者に「瀕死の鳩」を委ねたのですから、自分では其の生死の結末は本当にはわからない。

瀕死の鳩」を自分の身銭を切って(動物病院へ運んでお金を払って助けるのではなく)、即ち「直子」と共に死ぬことなく、交番へと持って行って他者に預け、その愛する女性の生死と生殺与奪を人に、それも国家権力の末端に預けてしまった(自分の父親は国のために死を賭したのに、死んだ戦友たちがゐたのに、そして其の父親を全面的に激しく内心深く否定した息子であるのに)村上春樹は、「瀕死の鳩」である「直子」の死の後も現実である地上世界では其のやうな罪を犯して生きてゐるといふ贖罪感を抱へたまま、地下世界に死者として生きる「瀕死の鳩」である(「瀕死」であれば生きてゐるかも知れない)「直子」に会ひたいと思ってゐるのです。しかし現実の本当に愛した女性は他殺によるのではなく、自殺によって死んでしまった。この、現実と虚構を巡る論理と感情は複雑です。

この複雑の中に、村上春樹がゐます。[註6]

[註6]
村上春樹は『職業としての小説家』の中で、この自己の有りやうを率直に次のやうに語ってゐます。

「僕が長い歳月にわたっていちばん大事にしてきたのは(そして今でもいちばんだじにしているのは)、「自分は何かしら特別な力にyって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」(原文傍点)という率直な認識です。そして僕はなんとかそのチャンスをつかまえ、また少なからぬ幸運にも恵まれ、こうして小説家になることができました。あくまで結果的にではありますが、僕にはそういう「資格」が、誰からかはわからないけれど、与えられたわけです。僕としてはそのようなものごとの有り様(よう)に、ただ素直に感謝したい。そして自分に与えられた資格を――ちょうど傷ついた鳩を守るように――大事に守り、今でもまだ小説を書き続けていられることをとりあえず喜びたい。あとのことはまたあとのことです。」(同書、60ページ)

この言葉の中に、上記にお伝へした鳩と「直子」の関係をお伝へしたかったことと同じことが語られてゐます。勿論、このやうに語る村上春樹であるならば、それが誰のお蔭であるのかは十分過ぎる位に知ってゐるのです。そうであれば、この小説家が小説を書くといふことの意義は、死んでしまった(いや、ひょっとしたら生きてゐるかも知れない)本当に愛した女性の命と青春を、その言葉のままに守り、また葬ひ、且つ荘厳する行為に他ならないのです。[註6-1]

また、「あとのことはまたあとのことです」といふ言ひ方の中に、この作家特有の引き算の論理(同書、P108)と感情と、それから感覚を、私たちは見ることができます。

同じこの瀕死の鳩のことを(これは神宮球場の外部での出来事)、球場の内部でのあの啓示を得た時の経験を、全く内外同等に、従ひ交換可能なものとして、次のやうに述べてゐます。

「そのときの感覚を、僕はまだはっきりと覚えています。それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止めらrたような気分でした、どうしてそれがたまたま僕の手のひらに落ちてきたのか、そのわけはよくわかりません。そのときもわからなかったし、今でもわかりません。しかし理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、なんと言えばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。」(同書、P47、原文傍線は傍点)

[註6-1]
村上春樹は同じ本の中で、何故年相応の登場人物を書かなければならないのだ?そんな必要を感じないと次のやうに述べてをります。

「ときどき「どうして自分と同じ年代の人間を主人公にした小説を書かないんだ?」と質問されることがあります。たとえば僕は今六十代半ばですが、なぜその年代の人間の物語を書かないんだ。なぜそういう人間の生き方を語らないんだ?それが作家としての自然な営みではないか、と。
 でももうひとつよくわからないのですが、どうして作家が自分と同じ年代の人間のことを書かなくてはならないのでしょう?どうしてそれが「自然な営み」なので賞?前にも申し上げましたように、小説を書いていていちばん楽しいと僕が感じることのひとつは、「なろうと思えば、誰にでもなれる」ということです。なのに僕がなぜそのすばらしい権利を、自ら放棄しなくてはならないのでしょう?」(P260ページ、原文傍線は傍点)と書いてゐて、この段落の後に、『海辺のカフカ』で主人公の年齢を15歳に設定したことを述べ、書いてゐる当時五十歳を少し過ぎてゐた自分と現在の年齢の自分との間に「すばらしい権利」を行使して、「なろうと思えば、誰にでもなれる」人物になって、書くことの楽しみを得た自分の経験を話してゐます。

当然のことながら、村上春樹は死者としての「直子」にもなることができて、喪失した異性と其の時間を恢復することが、虚構の世界で、この論考の中でお伝へしたやうに、できるのです

としてみれば、村上春樹が使ふ「楽しい」といふ言葉もまた、「奇妙な」という形容詞共々、普通の日常の、生きてゐる私たちの用法とは相当に異なってゐるのです。村上春樹が作品中であれエッセイであれ、「楽しい」といふ言葉を使ってゐるところを理解するには、読者としての相当な注意を要します


この場所が、ノルウエイの森の最後に主人公が、もう一人の、これは現実の恋人緑の「あなた、今どこにいるの?」といふ問ひに対して、主人公が最後の段落で自らに問ふ「いったいここはどこなんだ?(略)僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた」電話ボックスといふ箱の意味なのであり、そこにゐて此の問ひを自問自答する理由なのです。

瀕死の鳩」を交番へ持って行ったといふ逸話は、このやうに実に象徴的であり、その後の村上春樹の「職業としての小説家」としての人生を決定的なものにしてをります。

さて、多崎つくるの物語の後に、この「二種類の(A)と(B)の構図のうちに」構図で果たして、愛した死者に対する贖罪の心情がおさまるものか、おさまるためにはどのやうな構造化を小説にしなければならないのか、これが今の村上春樹の課題です。

「二種類の(A)と(B)の構図のうちに」村上春樹が書き継いで来た構図については、別途稿を改めてお伝へします。

最後に、『ノルウエイの森』の最後の最後にレイコさんが主人公を尋ねて演奏する曲数は、いふまでもなくbaseball gameのルールに則って意味があり、9回といふ一式の数で割って余る回数は延長戦なのであり、またその第11章の表裏に演奏される、この最後の章が死の章なのであってみれば、それはビートルズの曲としての死者を葬送する曲なのであり(章立てのininngとしてはこれが表)、またレイコさんが「五十一曲目にいつものバッハのフーガを弾いた」後(章立てのininngとしてはこれが裏)、主人公が(直子の霊が憑依したと古代の人はいふことでせうが、そのやうなヒトとしてある)レイコさんと性交する4回といふ回数もまた、旧約聖書では四日目はGodが(人間以外の)鯨、獣類、鳥類を創造した日であって、この日までには人間はまだ創造されてはをらずにゐて、獣として交わったのか又はこれから生きた人間として地上に生まれて来るといふ意味であるのか、いづれにせよthree Outで二人は死んで、余ったone ininngである次の新しい4日目のininngの新しい天地創造の日の連続が、7日目の安息日まで至ることを意味してゐます。

「五十一曲目にいつものバッハのフーガを弾いた」といふレイコさんのバッハは、baseball gameの9回までを一式として割り算すると、48回+3回といふことですから、楽園から追放された二人が、表と裏を攻守ところを代えて性愛を交わして、その後に10回、10th ininngの表に死者としての二人の不毛な性交[註7]を祝福するために演奏された曲といふ事になり、その裏の回には、二人は別れ、レイコさんは確かな意志を持って北海道の旭川へ、主人公は東京に留まって緑に電話をするといふ段になり、後者は「あなた、今どこにいるの?」といふもう一人の恋人緑の質問に対して、電話ボックスの中で「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけてい」て答へる事ができない中ブラリンの贖罪の状態状態のままになってゐるのです。

[註7]
この死者の国での、根の国での男女の性の交換は、処女作『風の歌を聴け』の「ハートフィールド、再び……(あとがきにかえて)」の最後に言及されてゐる、作者が引用した典拠として謝辞を述べてゐる「マックリュア氏の労作、「不妊の星の伝説」(Thomas McCLure; The Legend of the Sterlie Stars: 1968)」の「不妊」(Sterlie)といふ形容詞を想起させます。


追記:
初期3部作では、死と死者と死の場所を意味する「奇妙な」といふ形容詞は、『風の歌を聴け』では3回、『1973年のピンボール』では3回、『羊をめぐる冒険』では(目次のも入れて)43回出てきます。

1作目、2作目の3回といふ数から飛躍的に数を増やした3作目の数は、量的に見れば、やはり此の作品が次の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』への飛躍する特徴ある作品と考へることができます。

さうしてまた、2作目と3作目の間にある封印作もまた、この観点から吟味する事によって、村上春樹の文学を一層理解を深く理解することができることでせう。







ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与は何を意味してゐるのか?(2)

ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与は何を意味してゐるのか?(2)

村上春樹が『職業としての小説家』の中で、今回のBob Dylanの受賞を拒否ではなく、これはむしろ無視といふべき挙に出たアメリカ人らしい理由を、歌手の言葉ではないが、レイモンド・チャンドラーとネルソン・オルグレンといふ二人の小説家の言葉を引用して語ってゐて、これが其の儘Bob Dylanの、この拒否することさへしないといふ無礼な態度と其の理由になってをりますので、これを伝へて、村上春樹自身の言葉に代えて、さうして、前回(1)で私の結論した、Bob Dylanが受賞したら、もはや村上春樹の芽ははないだらうといふことのもう一つの根拠として、また村上春樹自身による同じことの説明の言葉として、お届けします。

ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人には、次のやうな人たちがをります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/02 08:08 UTC 版)
ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人
1930年 - シンクレア・ルイス
1936年 - ユージン・オニール
1938年 - パール・S・バック
1949年 - ウィリアム・フォークナー
1954年 - アーネスト・ヘミングウェイ
1962年 - ジョン・スタインベック
1976年 - ソール・ベロー
1978年 - アイザック・バシェヴィス・シンガー (イディッシュ語で創作)
1987年 - ヨシフ・ブロツキー (ソヴィエト連邦からの亡命者。主にロシア語で創作)
1993年 - トニ・モリソン
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/02 08:08 UTC 版:http://www.weblio.jp/wkpja/content/アメリカ文学_ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人)

これらは皆小説家か詩人であって、歌手ではありません。ですから、今回のノーベル文学賞の受賞は、前回お伝へしたノーベルの遺言の主旨と其の選考方針から言っても、可笑しい。以下理屈抜きに、村上春樹からの孫引きです。

「レイモンド・チャンドラーはある手紙の中で、ノーベル文学賞につてこのように書いています。「私は大作家になりたいだろうか?私はノーベル文学賞を取りたいだろうか?ノーベル文学賞がなんだっていうんだ。あまりに多くの二流作家たちにこの賞が贈られている。読む気もかき立てられないような作家たちに。だいたいあんなものを取ったら、ストックホルムまで行って、正装して、スピーチをしなくちゃならない。ノーベル文学賞がそれだけの手間に値するか?断じてノーだ」」

また、ノーベル文学賞ではないが、そもそも国家レヴェルの文学賞といふものに対するネルソン・オルグレン(『黄金の腕を持った男』『荒野を歩け』の著者)が、「カート・ヴォネガットの強い推薦を受けて、一九七四ねんにアメリカ文学芸術アカデミーの功労賞受賞者に選ばれたのですが、そのへんのバーで女の子と飲んだくれていて、授賞式をすっぽかしました。もちろん意図的にです。送られてきたメダルをどうしたかと尋ねられて、「さあ……」どこかに投げ捨てたような気がする」と答えました。『スタッズ・ターケル自伝』という本にそんなエピソードが書いてありました。」

アメリカといふ国は、ヨーロッパといふ父親に独立宣言といふ絶縁状を叩きつけて孤児になる道を選んだ国であり、従ひ逆にヨーロッパ文明を極端に先鋭化した其の鬼子といふべき国家ですから、恐らく芸能に近い通俗小説といふエンターテインメント(娯楽)の文学は、上のチャンドラーの手紙の文面を見ますと、当時チャンドラーがノーベル文学賞といふ期待や希望がアメリカにあったことが推察できますけれども、しかし通俗的な文学が如何に庶民大衆に歓迎されて人気を博しても、死語に等しい「純文学」といふ日本語を使えば、純文学ではない文学にばかりこれまでの受賞者がアメリカから選ばれてゐるだけであって、やはりヨーロッパからみて鬼子の国の通俗レヴェルの作家(これは決して否定的な意味では使ってゐるのではありません、誤解なきよう)には授与されてはこなかったのです。

しかし、今回のBob Dylanは歌手であって、歌といふ芸能そのものである分野の、しかし世界的なとはいへ、芸能人です。つまり文学の世界でいふならば、レイモンド・チャンドラーに当たる階層の通俗歌手です。

それにヨーロッパ文明にあるノーベル賞が文学賞を与へるとなると、恐らくは世界的な芸能歌手であるBob Dylanの胸中は、チャンドラーの反骨の言葉と変わらぬ思ひであったのではないでせうか。

村上春樹は、同書の中で、自分は「いわゆる「小説言語」「純文学体制」みたいなものからできるだけ遠ざかったところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」」ことをしたかったし、さうしてきたと語ってをり(同書54ページ)、さらに同時に「「純文学」装置に取り込まれることなく」、この「装置」を自分の世界の部品として入れることを積極的に回避して小説を書いてきたと明言してをりますので(同書272ページ)、チャンドラーの思ひは、そのまま、アメリカ文学と其の文化に通暁してゐる村上春樹の思ひと考へて良いでせう。

さうして、今回のノーベル文学賞の選考委員の選考結果が、このやうに軸のブレたものであり、世界的な通俗歌手に授与することを決定したのであれば、同列にあることを自覚してゐる村上春樹に将来授与されることはないのです。

このやうなチャンドラーやオルグレンの引用をする村上春樹は、意外にも反骨の人であるのかも知れません。もっとも、イスラエルでの文学賞で卵と壁の譬喩を使った講演は、稚拙な政治性を発揮してしまってゐて、全く戴けないものでありましたけれども。









2016年10月25日火曜日

『赤い繭』論

『赤い繭』論

「『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く~」(もぐら通信第34号)より、シャーマン安部公房の儀式の式次第は、次のようなものでした。

1。差異(十字路)という神聖な場所を設けて、
2。その差異に向かって、また其の差異で呪文を唱えて、
3。その差異に、存在を招来し、
4。主人公と読者のために、存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を存在の十字路(差異)に立て、または案内人か案内書を配し、
5。存在を褒め称え、荘厳(しょうごん)して、
6。最後に、次の存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を立てる。

という、このような、安部公房の秘儀の式次第でありました。

安部公房の読者が、安部公房の作品を読むための便覧として役立つように、もう少し簡略にしてお伝えすると、

1。差異を設ける。
2。呪文を唱える。
3。存在を招来する。
4。存在への立て札を立てる。
5。存在を荘厳(しょうごん)する。
6。次の存在への立て札を立てる。

ということになります。

『赤い繭』という全集で3ページの短編の中に如何に此の6つのプロセスが、既に此の時確立しているかを見て見ましょう。

1。差異を設ける。
次のような差異を、安部公房は設けて、祈祷の祭壇としております。

(1)時差:時間的な差異
  夕暮れ 
   即ち、昼と夜の時間の隙間:
   「日が暮れかかる。」

(2)隙間:空間的な差異
  ①家と家の隙間
   「俺は家と家との間の狭い割れ目をゆっくり歩き続ける。」

2。呪文を唱える。
「街中こんなに沢山の家が並んでいるのに、おれの家が一軒もないのは何故だろう?......と、何万遍かの疑問を、また繰り返しながら。(傍線筆者)

呪文は繰り返しの祈祷の言葉であり、魔術的な繰り返しの言葉です。ここでの呪文は、

(1)何万遍かの疑問であり、
(2)その疑問の言葉、具体的な呪文の言葉は、街中こんなに沢山の家が並んでいるのに、おれの家が一軒もないのは何故だろう?という言葉であり、疑問なのです。この疑問の言葉を何万遍も繰り返すのです。

そして、大事なことは、呪文の繰り返しに入る前に、「……」という、安部公房の意識から無意識へと落ちてゆく此の独白の余白が置かれていることに注意を払いましょう。安部公房は自分自身にとって極めて重要で本質的なことに質問が触れると途端に(超越論的にと言っても同様です、我を忘れて)没我の状態になるのです。[註1]

[註1]
一番良い例は、安部公房が書いた詩を見ることです。このもぐら通信で何度も引用した『主観と客観』と題した詩をご覧ください。

しぐれ行く黄昏の鈍色(にぶいろ)よ
 木の間木の間に
 よび返し ものおじしつゝ
 泣くのは誰ぞ?
 闇と嘆きと…………蹲る影
 おゝ悲しき現在(いま)よ つれなしの
 吾が在り様のことはりよ

 されど物問ふ唇に
 黙して傾ぐ愛の眼に
 返り叫ぶ君がさゝやき
 姿見の照り返し
 夕辺に満てるあらけなの
 吾が在り様の夢と夢

 あはれ此処には吾れも無し
 大地は天に駆け消えて
 ゆくさもくさも雨のそぼふり
 蹲る影 おゝ血と涙
 さすらひの初め
 ひそけさよ
 おゝかの言葉 吾が胸に
 帰れと叫ぶ かの言葉!
 己が心の木の間 木の間に
 誰かこゞみてすゝり泣く

(安部公房全集第1巻、165ページ、詩集『没我の地平』:(1946年冬頃。安部公房22歳))

ここでも、

(1)差異を設ける。
「しぐれ行く黄昏」という時間の差異(間)と、その次に「木の間木の間に」という空間の差異(隙間)を設け、その差異「に」(差異の中でか、またはその差異の外側で差異に対してという意味か)、

2。呪文を唱える。
(1)「よび返へし」という繰り返しの呪文を唱えて、ここでは、
(2)呪文の繰り返しに入った後に、「……」という、安部公房の意識から無意識へと落ちてゆく此の独白の余白が置かれています。

呪文と独白の「……」という沈黙は相互に関係していつも現れることに注意しましょう。更に例えば、『飛ぶ男』の冒頭の「立て札」にある呪文。これも同様の形式を踏んでいます。



(全集第29巻、14ページ)

3。存在を招来する。
そこに存在を招来して、存在の中で泣いている「蹲る影」を呼び出しています。しかも、存在の中では、「蹲る影」は、「闇と嘆き」との間(差異)にいるのです。

4。存在への立て札を立てる。
第1連にはありせんが、第2連に歌われる、存在になった自分自身の姿が「照り返」す「姿見」という鏡が、立て札ということができます。

合わせ鏡の世界である、再帰的な安部公房の世界です。

5。存在を荘厳(しょうごん)する。
第3連の全体が荘厳の言葉と言えましょうが、もっと特定すれば、この荘厳の性格を帯びている言葉は、

「おゝかの言葉 吾が胸に
 帰れと叫ぶ かの言葉!」

と繰り返される此の二行と、更にその中にあって更に尚繰り返される「かの言葉」が、荘厳のための呪文の言葉ということになりましょう。

6。次の存在への立て札を立てる。
最後の存在への立て札は、

「己が心の木の間 木の間に
 誰かこゞみてすゝり泣く」

という、内部と外部が交換されて、第1連の始まりでは差異の中にいた「吾」という主観が、最後の連の終わりでは、差異が「己」の内部に客観を収め、この2行が立て札となっています。(小説家になった後の小説の世界ならば、新聞の死亡記事や失踪宣言が、これに当たりましょう。)

こうして此の詩の一人称の文字の使い方を見れば、外部の差異の中に一人称の存在する場合には「吾」を、「吾」という一人称の中に外部の差異が存在する場合には其の一人称に「己」を、それぞれに「吾」と「己」を使い分けて、その交換による一人称の在り方の違いを示していることが判ります。


3。存在を招来する。
安部公房の主人公にとって、存在はいつも自己忘却、自己喪失とともにやってきます。

「ふと思いつく。もしかするとおれは何か重大な思いちがいをしているのかもしれない。家がないのではなく、単に忘れてしまっただけなのかもしれない。」

この後に、家の窓と女の顔と壁のことが語られます。しかし、これらのことはみな「例えば……と、」で始まる従属文の中で出来事なのです。夢の中と言っても良い。

それでは一体、主語たる一人称の「おれ」は一体どこにいるのだ?というのが、「暮れかかる」夕暮れの時間の隙間に、「家と家との間の狭い割れ目」という空間の隙間に「ゆっくり歩きつづける」[註2]「俺」の問いであり、繰り返しの呪文であり、それによって存在を招来するまで、即ち上の[註1]に書いたように、一人称が内部と外部の交換によって存在になって、この世から消失するまで「ゆっくり歩きつづけ」なければならないのです。

この従属文には、私と云う主語はないのです。主語を欠いた夢の中の従属文。これは、このまま晩年のクレオール論の構造です。

さて、このように、存在の存在する差異の中では、自己忘却と自己喪失によって、すべてのものが等価で交換される状態になります。

[註2]
隙間から隙間をさまよい歩く「さまよえるユダヤ人」については、その論理的な根拠を旧約聖書に求め、アメリカ人の発明したbaseball gameが、その創世記の贋物であることを論じた『安部公房の読者のための村上春樹論(中)』(もぐら通信第50号)をお読み下さい。

旧約聖書の此の存在論的な論理性を備えているが故に、安部公房の作品はキリスト教圏その他こレヲ聖典としている宗教圏に受け容れられているのです。


さて、そうして、次に、

4。存在への立て札を立てる。
次に安部公房は主人公と読者のために、存在への立て札を立てます。

次に引用する概念連鎖の行き着くところ、即ち位相幾何学的な「道」が、存在への方向を示す立て札でありましょう。[註3]この概念連鎖は、

家(単数)→家々(複数)→(家々の間の)割目→道

となっています。(全集第2巻、494ページ上段)

注意すべきは、家と家々の間、家々の割目の間、の割目と道の間には、上述した沈黙と独白の「……」が置かれていることです。

家々と割目の間にこの記号が置かれていないのは、家々と言えば、安部公房は即座に其の間の割れ目という差異を思うからです。例えば、次のような写真をご覧ください。これは「安部公房の奉天の窓の暗号を解読する」にて引用した写真です。(もぐら通信第33号)全集の第8巻表表紙をご覧ください。

この写真は干物を撮っているのではなく、即ち家々を撮影ているのではなく、家々の割れ目を、即ち干物と干物の隙間を撮影亭いるのです。これが安部公房です。



[註3]
安部公房の道という概念については株の道と安部公房の道と題して、もぐら通信第24号に、次のように書きましたので再度引用します:

安部公房の道は、既に18歳の時に書いた『問題下降に拠る肯定の批判』に、遊歩場と呼ばれる道として出て参ります(全集第1巻、12ページ下段から13ページ上段)。

この安部公房の道は、「二次的に結果として生じたもの」であり(晩年のクレオール論を読んでいるような気持ちがします)、「第一に此の遊歩場はその沿傍に総ての建物を持っていなければならぬ。つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけないのだ。それは一つの具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念でなければならぬ。第二に、郊外地区を通らずに直接市外の森や湖に出る事が出来る事が必要だ。或る場合には、森や湖の畔に住まう人々が、遊歩場を訪れる事があるからだ。遊歩場は、都会に住む人々の休息所となると同時に、或種の交易場ともなるのだ。」という道なのですが、この文章を読むと、多分このとき既に、安部公房はtopology(位相幾何学)という数学を知っていたのだと思われます。

この道は、幾何学的な道であって、そこには時間がありません。時間軸で人生の道と思って引くような線は、安部公房の道ではないのです。そのように考えなければ、多くのひとがきっとここで、安部公房の言う道を誤解することになるでしょう。


5。存在を荘厳(しょうごん)する。
この『赤い繭』という作品では、[註1]の『主観と客観』という詩の「5。存在を荘厳(しょうごん)する」で述べたところに従えば、

「おや、誰だ、おれの足にまつわりつくのは?」

で始まる段落全体が荘厳の言葉と言えましょう(全集第1巻、494ページ上段)。

もっと特定すれば、この荘厳の性格を帯びている言葉は、

「日が暮れかかる。おれは歩きつづける。」

で始まる箇所で、位相幾何学的な道が提示され、既に存在への方向が示されていますので、「おや、誰だ、おれの足にまつわりつくのは?。」で始まる段落全体が、存在荘厳のプロセスだということができます。なぜならば、ここには存在に関する言葉が出てくるからです。それは、次のような2つの言葉です。

(1)首吊りの縄
作品の第2段落の始めで「電柱にもたれて小便をすると、そこには時折縄の切端なんかが落ちていて、おれは首をくくりたくなった。」とある縄の、此処での再度の繰り返しです。

繰り返しは呪文でありますから、この縄は荘厳のための呪文の縄だということになります。主人公が存在という上の次元の中に入って行くための荘厳であるとすれば、現実の世界では、これはほとんど主人公の死を意味しているのではないでしょうか。

縄による殺人という主題を扱った『なわ』という題の短編小説があります。

(2)靴の破れ目(割れ目)
やはり、この縄の「端は靴の破れ目にあ」る。

そして、最後に言うべきことは、この荘厳の段落の冒頭の「おや」と云う感嘆詞は、超越論的な感嘆詞であって、「ふと」とか「いつの間にか」とか「どこからともなく」と云う言葉と同じように、時間の無い空間、即ち文学と詩の方面からは、安部公房がリルケに学んだ純粋空間を、数学と幾何学の方面からは、位相幾何学に学んだ位相の異なる別次元の時間の無い空間を創造していると云うことです。[註4]

[註4]
わかりやすい例で言えば、鞍馬天狗は超越論的な存在ですから、いつも映像に登場するときには「ふと」「いつの間にか」「どこからともなく」登場します。この例が古すぎると云うのであれば、近いところではウルトラマンがそうです。日常の時間の中ではハヤタ隊員の体の中にいて隠れているが、いざ鎌倉となると、「ふと」「いつの間にか」「どこからともなく」登場して怪獣の眼前に現れます。

これに対して、仮面ライダーは超越論的な主人公ではありません。何故ならば、日常の時間の中で「変身」と言いながら変身するからです。

女性の例で言えば、毎朝自分の部屋で人に見られぬように隠れてお化粧をして変身するのが、超越論的なウルトラマンの変身と登場の仕方、これに対して近頃よく見られるような走る電車の中で(臆面もなく)衆人に見られてお化粧をして変身するのが、時間の中の、非超越論的な仮面ライダー型の返信と登場の仕方ということになります。


6。次の存在への立て札を立てる。
この「後に」「残った」「大きな空っぽの繭が」立て札でありましょう。

そうして、中身である筈の一人称の私は、空っぽで、次の次元へと消滅している。

そして、自分が家々の隙間の道を歩いていたときには自分の家は見つからずに、内部と外部が交換されて繭になって空っぽの自分になったら、繭が家であれるとすれば、自分に家は見つかったが、その中では空っぽの自分である。「家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。」

さて、上述のように、荘厳された純粋空間には時間は存在しませんので、当然のことながら「繭の中で時がとだえ」ます。そして、主観と客観は、内部と外部が[註1]の『主観と客観』という詩の最初と最後でのように交換されますから、「外は暗くなったが、繭の中はいつまでも夕暮で、内側から照らす夕焼の色に赤く光ってい」ることになります。

あるいは逆に、内部と外部が交換されるので、主観と客観が交換されるといってもいい。荘厳された存在の中では、これらの事は等価で交換可能なのです。

繭の中に今やある夕暮と夕焼は、いうまでもなく、無時間の隙間の時間、従い繭の外側は、内部の空虚な一人称であるおれとは別に、隙間である空間を意味しています。(最初は時間の中に家々の割目という空間があったのに、最後には空間の中に無時間という時間が存在するということになります。)

従い、このようにしてある繭全体は、やはり隙間である「汽車の踏切とレールの間で」「法律の門」の番人によって見つけられ、当然のことながら、最初に主人公が「公園のベンチ」に寝ているところを見つかったときには、隙間を行く人間は(家々を家々だとその名前を呼ぶ人間にとっては主人公は)位相幾何学的な誰の目にも見えない道をゆく人間、即ち犯罪者ですから、つまり箱男に典型的なように隙間に棲む乞食未満の人間ですから、「彼」という実際の世界では警察官である「彼」によって、即ち「法律の門」の番人によって、主人公が「棍棒を持っ」て「追い立て」られ、「こら、起きろ。ここはみんなのものであり、誰のものでもない。ましてやおまえのものであろうはずがない。さあ、とっとと歩くんだ。それが嫌なら法律の門から地下室に来てもらおう。それ以外のところで足を止めれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯したことになるのだ。」と言われるのです。

そして、その「彼」が、話の最後に主人公である繭、繭になった主人公を隙間に発見する。

発見したときに「最初腹をたてた」のは、この「彼」が「法律の門」の番人だからであり、隙間に入る物は法律の外にある物であって、それだけで犯罪的な物であり、「それだけで」「罪を犯した」物だからです。そして、人間の姿をした犯罪者という、今は人間ではないものとしてある法律外の犯罪的な隙間に落ちて入る物は、確かに「珍しい拾いもの」です。

そして、最後には赤い繭は、「彼の息子の玩具箱に入れられ」た。

この玩具箱とはなにか?ですが、もしこの箱に蓋があれば、閉鎖空間、もし蓋がなければ、砂の穴と同じ凹の形状の窪地なのであり、やはりそれは存在の存在する場所であり、主人公が何度も何度も繰り返し出発しては永劫回帰する場所なのであって[註5]、従い、いづれの場合でも、次の場面では、この空虚の一人称の主人公は無名のままにこれらの空間から脱出し、または失踪することでありましょう。

[註5]
この凹の窪みと存在と永劫回帰については、『様々な光と巡って』に詳しい。(全集第1巻、202ページ)。この窪みは、安部公房の大好きだったリルケの詩『秋』にあることは、既に『もぐら感覚19:様々なと窪み』(もぐら通信第17号)及びもぐら感覚20:窪みにて詳細に論じましたので、これらをご覧ください。同じ窪みは、従い、安部公房の詩の中にも頻度高く歌われています。

以上の他に付言的に、安部公房の世界について、次の3つのことをお話ししたいと思います。

1。座標の無い世界
安部公房の世界は座標のない世界です。

それが隙間の世界であり、差異の世界です。

「おや、誰だ」で始まる超越論的な空間の生まれ始める段落の最後に、その結果の世界が予兆として次のように記述されております。

「更に妙なことが起った。次第に体が傾き、地面と直角に体を支えていられなくなった。地軸が傾き、引力の方向が変わったのであろうか?」

これと同じことを問いの形式として、18歳の安部公房は成城高校の校友誌『城』に投稿した『問題下降に依る肯定の批判―是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である―』で次のように問うています。

「では此の事―真理の認識―は不可能なのだろうか。しかし此処に新しい問題下降―一体座標なくして判断は有り得ないものだろうか。これこそ雲間より洩れ来る一条の光なのである。」(全集第1巻、12ページ)(傍線は原文傍点)

この論文の中での問いに対する答えは、勿論YESです。それが、この文章の次に言われている位相幾何学的な道なのです。そうして、さらには20歳の時の『詩と詩人(意識と無意識)』の中では一層この数学と詩と言語論理の融合と統合を図って、肯定的に答えており、この『詩と詩人(意識と無意識)』は一生の文学的な、安部公房の(Operating System)であり、このOSは砂に、顔に、地図に、箱に、病院に、方舟に、ノートブックにinstallされて来たことは、今まで諸処で述べて来た通ります。

上の超越論的な世界が生まれる前の、即ち主人公が繭になる前の前段としてある「次第に体が傾き、地面と直角に体を支えていられなくな」り。「地軸が傾き、引力の方向が変わったのであろうか?」という事件は、差異の中を歩いて自分の存在の部屋を求める主人公が、ある女の家を窓から尋ねて(この場面も『箱男』の中の、夜に病院の光ある窓を外から歩いて美しい看護婦の姿を求め探す箱男、存在の箱の中に隠れた箱男を十分に連想させます)、その家は主人公の家では無いと拒絶されて、「返事の代わりに、女の顔が壁に変わって、窓をふさいだ。」とあるところが既に、窓が塞がれて壁に変じたわけですから、主人公は壁の中へは窓を通じて入ることはできず、従い、家という世間的な名前のある陽画の世界ではなく、隙間といい差異という陰画の世界に身を潜ませる以外には無いことを、此処で前もって示しているわけです。箱男の世界です。

そして、主人公は考えて、それなら公園ならば公共の場所であるから、誰からも文句は言われないだろうと思って、夕方でもあるし、ベンチでごろ寝をするわけですが、そこにも「法律の門」の番人である警察官が来て、追い払われて、「さまよえるユダヤ人」同然になるわけです。

2。蛇
この作品では、のちの短編小説『なわ』と同様、人を殺す道具としての縄が登場しますが、この縄は、

(1)冒頭の家々の差異である道を歩いて入る時に一度、
(2)「おや」で始まる超越論的な空間の生まれる前の、座標の喪失の起こるところで二度、出て来ますが、

これが更に変形して、

(3)絹糸という隠喩(metaphor)と
(4)「蛇のよう」なという足(「絹糸に変形した足」)という直喩(simile)

という二つの譬喩によって更に表されています。

安部公房は隠喩より直喩をより多く使用したという印象が、私には強いのですが、これは全集全巻を通じて統計的な処理をするまで、結論はもう少し待つことにします。

しかしいづれにせよ、前者は対象を定義し、後者は対象との差異を何かに譬(たと)えることによって生み出す。この後者の力を安部公房は好んだと、私は思います。対して前者を好んだのは、これは明らかに三島由紀夫です。今引用の典拠を示すことができないのは残念ですが、三島由紀夫が安部公房の文体を評して、安部公房の使う直喩は自分は使えないのだと言っております。

ここで、

(1)縄は絹糸である。という文になり、更に、
(2)絹糸からなる、「絹糸に変形した足」は、「蛇のよう」である。

という文になった。

蛇は毒を持った殺人者でありましょうから、後者の方が直喩によって、その絹糸という優美優雅な糸である糸が、殺人のための縄と対比されて、その差異を示すことによって其の意味がよく読者には伝わることを、安部公房は計算したのでありましょう。

しかも、蛇である足ではなく、「蛇のよう」な足でありますから、主人公は死ぬことはなく、やはり存在の中で生きていると読まれる余地は十分に残るのです。

3。安部公房の考えたcommunism(共産主義)
主人公が「例えば」と言ってそのあとに続く「……」の後に陥り、「では公園のベンチはどうだ。」の前まで続く独白の中で、即ち(主語である「おれ」と云う私が隙間の中で失われ、また「おれ」と云う自己が喪失され忘却された)従属文の夢の中で自問自答する、家を巡る、

(1)偶然と必然の問題
(2)所有・非所有の問題
(3)所有の肯定と否定の問題
(4)自己承認の問題(私は何々であると一体誰が承認するのかという問題)[註4]
(5)窓と存在の部屋の問題[註5]
(6)窓と壁の問題[註5]

これらは、10代の時から安部公房が考えて来た重要な問題です。

安部公房のコミュニズムは、この問題の中にあります。これらの問題はみな、安部公房と共産主義を考察するために論理的な家を立てるための地面の礎石になります。備忘のために此処に記するものです。

[註5]
これらの問題は、一言で自己承認の問題と、若い安部公房は云っています。この考え方については、この用語そのものは出て来ないものも含めて、しかし、同じことを論じている(小説以外の)散文作品としては、次のものがあります。

1。『問題下降に依る肯定の批判』(18歳):論文
2。『詩と詩人(意識と無意識)』(20歳):論文
3。『没落の書』(20歳):エッセイ
4。『様々な光を巡って』(23歳):エッセイ

この自己承認については、『もぐら感覚18:部屋』(もぐら通信第16号)で、これも詳細に論じましたので、ご覧ください。『もぐら感覚18:部屋』で論じましたように、

1。部屋
2。窓
3。反照
4。自己証認(又は自己承認)

これらの言葉は、安部公房の精神世界では、概念連鎖の一式となっております。

『もぐら感覚18:部屋』(もぐら通信第16号)より引用して、この問題の一式が如何に安部公房にとって重要且つ本質的な問題であるかを以下に示します:

「『密会』は、失踪の象徴である救急車のサイレンで始まり、話の幕が上がります。この話の最後では、やはり主人公は闇の中で、再帰的な「一人だけの密会」を閉鎖空間のなかで行います。この最後の場面では、窓(自己を映す鏡)に相当する役割を演じているのが、盗聴器のマイクです。そうしてみると、副院長の馬は、主人公の反照、主人公の自己の客観的な夢であるということができます。さて、そうして最後の最後には、やはり自己承認の問題が、「明日の新聞」との関係で言及されています。

「いくら認めないつもりでも、明日の新聞(原文傍点)に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に死につづける。やさしい一人だけの密会を抱きしめて……」(全集第26巻、140ページ)

『方舟さくら丸』の最後の場面には次の様な一行があります(全集第 巻、ページ)。

「「愉快だね、この人」昆虫屋は探るように一同を見回し、ほんの一瞬、考え込む目付きになった。「でも、しょせん夢物語さ。拝んだって、頼んだって、誰が《代表棄民王国》を承認したりするものか」
 「分っていないね。いや、失礼しました。御破産の時代に入るんだってこと、お忘れにならないで下さい。自分で自分を承認すればいい時代です。新時代なんですよ」」

『カンガルー•ノート』から、自己承認の考えと意識が可笑しい対話になっているところを引用します(全集第29巻、119ページ下段から120ページ上段)。

「「無断じゃいけないのかい?水路ぞいに来たから、事情が分らないんだ。管理事務所は何処にあるの
 あ?後で了解をとりに寄ってみるよ」
「いま回数券を買ったら?」
「あいにく持ち合わせがないんだ。事務所で借用証にサインするから……」
「小父さん、職業は?」
「君こそ何なんだ?未成年だろう?労働基準法違反じゃないの?
「おれは、小鬼さ。労働基準法なんて関係ないよ」」」

このように主要な小説を一寸覗いてみても、安部公房が10代でみた宇宙のヴィジョン(vision)を、どのように散文の世界に展開をしているのか、あの4つの用語と概念を考え続け、それを言語によって形象(イメージ)化したのか、誠に興味深いものがあります。

こうして主要な作品をざっと眺めても、どうも最後には、あの夜、安部公房の部屋の壁を取り払い、外部と内部の交換が生動して、果てしない次元変換が第三の客観を、究極の反照をもたらす夜が、到来するようです。そうして、その闇の中で、夜の自己開示の瞬間に、失踪という脱出劇が行われる。

安部公房は、10代で至った部屋という空間にまつわる主題を繰り返し変奏したのです。」

また、窓については、『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)に詳細に論じましたので、ご覧ください。

また、存在の部屋については、『もぐら感覚18:部屋』(もぐら通信第16号)で、これも詳細に論じましたので、ご覧ください。