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2012年9月30日日曜日

月刊「もぐら通信」(創刊号)を再度、あらためて、お届けいたします。




こんにちは、

月刊「もぐら通信」(創刊号)を再度、あらためて、お届けいたします。

前便のお知らせにてお伝えしたURLアドレスのサービスが、今迄は無料でダウンロードができたのものを、何故か有料の読者のアカウントを開設して、月9ドルを支払わなければダウンロードできないことを、今日、知りました。

これは、アメリカ人の強欲といわねばなりません。

安部公房は「箱男」脱稿直後の講演で、窮乏せる自由を選ぶか、はたまた自由のない豊かさを選ぶかという問いかけを聴衆にしておりますが、当然のことながら、もぐら通信は、前者を選択する次第であります。

このアメリカ人のサービスでは、広く普(あまね)くお読み戴くというもぐら通信の趣旨に反しますので、このサービスの利用をやめ、別のサービスに切り替えましたので、そのURLアドレスへお越し下さって、あらためて、ダウンロードなさって下さい。

ご迷惑をおかけ致しました。


次のURLアドレスへいらして、ダウンロードなさって下さい。但し、本日より7日間の間しか、この保存•ダウンロードサービスは利用ができませんので、御注意下さい。




もし7日以上時間が経過して、ダウンロードできない場合には、下記のメールアドレスへご連絡下さい。直接あなたのメールアドレスにファイルを添付してお送り致します。

また、ご感想、コメントなどお寄せ下さると、誠に嬉しく存じます。

そうして、安部公房について、あなたの感じたこと、考えたことなどをお書き下さって、安部公房の広場またはこのもぐら通信にご投稿下さると、ありがたく思います。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。


安部公房の広場
もぐら通信編集部一同

連絡先:eiya.iwata@gmail.com


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        安部公房の広場
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月刊「もぐら通信」(創刊号)をお届けいたします。





こんにちは、

月刊「もぐら通信」(創刊号)をお届けいたします。

お読み戴けると幸いです。

次のURLアドレスへいらして、ダウンロードなさって下さい。




ご感想、コメントなどお寄せ下さると、誠に嬉しく

存じます。

また、安部公房について、あなたの感じたこと、考えたことなどを
お書き下さって、安部公房の広場またはこのもぐら通信にご投稿
下さると、ありがたく思います。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。


安部公房の広場
もぐら通信編集部一同


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        安部公房の広場
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2012年9月29日土曜日

安部公房展(1998年1月6日)


安部公房展(1998年1月6日)


Yahoo掲示板のallenさんの投稿(http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1000004&tid=0bit8xkbc&sid=1000004&mid=562)に刺激されて、1998年1月6日から2月15日まで、東京調布市の文化会館たづくり1階展示室で開催された安部公房展のパンフレットの写真を上梓しますので、ご覧下さい。

この写真は、いつもわたしの机の前に掲げているものです。

この展覧会のときは、一度行ったきりでしたが、今思えば、もっと何回も行っておけばよかったと思います。

室内には、安部公房作曲の「子象は死んだ」のシンセサイザーの音が聞こえておりました。

このときの展示品の写真が、今も加藤弘一さんのウエッブサイト「安部公房:ほら貝」で今でもみることができます。次のURLアドレスです。







安部公房の読者を何と呼ぶか


安部公房の読者を何と呼ぶか


シャーロック•ホームズの愛読者、熱烈なるファンをシャーロッキアンと呼びます。

不思議の国のアリスを書いたルイス•キャロルの愛読者は、キャロリアンと呼ばれています。

さて、安部公房の熱烈なるファンは、何と英語で言うのでしょうか?あるいは、ドイツ語では、ドイツ人は何といっているのだろうか?と、興味を以て、ドイツの友人に訊きましたところ、次のような回答が参りましたので、引用して、あなたにお伝え致します。

わたしは、英語でKoborianというだろうかと尋ねました。


「安部公房のファン」というのを聞いたところ(彼は『砂の女』を早い時期に読んでます)、普通だったら造語として「Koborian」は考えられるけれど、大きなグループではないので、コンテキストで
分る程度で理解はされず、使われていないと思う、ということです。ドイツ語にはそれに相当した言葉はなく、「安部公房ファン」と言うしかない、ということです。


この回答を読むと、安部公房という作家は、少なくともドイツでは、愛読者の大きなグループを持っていないということになります。

また、英語の世界でも、そうであるということを言っています。

この回答者は、出版社の編集者であるので、文学の事情にも詳しいものと思われます。

しかし、考えてみれば、これは安部公房らしいのではないでしょうか。

即ち、安部公房の愛読者は、やはり、一匹一匹のもぐらであって、各自が自分の足下の地面に穴を掘り、毎日こつこつと「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」をしている人間だということであれば。

弱者とは何かー安部公房の愛の思想

これまで見てきましたように、「弱者への愛」は実は安部公房が、私たちの「弱者=保護されるべき、弱いひと」という認識に鋭い問いかけをなし、「弱者」を包摂する社会への逆進化こそ人類進化の必須の法則なのだ、と提示するタームだったのですね。

さらに安部公房の思想は進みます。

安部公房は、弱者と社会の関わりについて
「もしか人間が進化論的な淘汰の法則に従っている状況であきらかに弱者であったものが、社会構造を持つと別の意味での機能を持って強者に十分なりうるでしょう」(*1)
と言っています。卑弥呼のような巫女もそうした機能を備えた弱者でした。

また
「自然がコントロールされ得るものになった場合(中略)自然に対する不適者こそ、自然を克服したいという願望を内的に持ち得るから、むしろ不適者生存の世界になってゆくわけだよ」(*2)
と、逆進化の原動力を弱者自身の中に認めています。そして道具の開発や抽象化する能力までも弱者にその契機を見るのですね。
これは「弱者こそ社会発展の原動力」とするとてもラディカルな考え方で、安部公房の思想のさらなる高みを示しています。

ところで安部公房は、常に楽観的には流れない人です。
「今の社会では弱者に希望はないが、その希望のなさに希望をみるよりないように思う」(*3)とも言っているのです。『密会』の最後に「ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に死につづける。やさしい一人だけの密会を抱きしめて・・・」と「死ぬ」ではなく「死につづける」というところに愛や希望の芽を見ようとしています。安部公房の逆進化の思想が広く社会に受け入れられなければ、と痛切に思います。

また弱者と強者については、善と悪のような二元論は当然採っていません。『密会』における女秘書は「強者でありながら弱者だという感じ」で、馬人間も「弱者になっているか強者になっているか微妙」と言っていて、我々の心の内にも弱者と強者が同居していることを示唆しています。

ここにおいては「弱者とは何か」ーそれは「私たち自身であり、社会的には進化の原動力である、ような存在である」という積極的な意義を与えられ、憐れみや同情やらの上から目線の愛を必要とする存在ではなくなるのです。

「弱者への愛にはいつだって殺意がこめられている」の意味するところはここに明らかだろうと思います。


(*1)「構造主義的な思考形式」(渡辺広士によるインタビュー)1978/1全集26
(*2)「都市への回路」(インタビュー)1978/4 全集26
(*3)「密会」の安部公房氏(談話記事)1977/12 全集26

〔OKADA HIROSHI〕

2012年9月28日金曜日

夢の逃亡(安部公房):飛行と塀とテント


安部公房の初期の短編に、夢の逃亡という小説がある。

これを読んでいると、その後の生涯に亘って、他の作品にも現れるイメージや発想が、実に詩的に現れることに気づく。

愛だけが法則を無視した飛行をする。

という一行の前後は、遺稿となった「飛ぶ男」の形象である。

また、塀という形象もでてくる。

これは、勿論、「終わりし道の標に」にも最初に出て来る形象であるが、今「夢の逃亡」に同じ形象が出て来て思うことは、塀とは、この世界の謎、謎の世界、世界は謎であるということの表現であり、象徴であるということだ。

(そうして、この塀は、後年様々に変形して、例えば、壁と呼ばれ、砂と呼ばれ、迷路と呼ばれ、箱と呼ばれる。)

安部公房のテキストは多義的であり、本人もそれを十分意図的に意識している。

そのような多義的な自分の作品のありかたを、どこかで、テントを張って、骨組みをすっかり消してしまうという、そのような構築物の譬喩として、述べている。

この骨組みをすっかり外したテントという形象、イメージは、そのまま安部公房の言語の形象であり、イメージなのです。

安部公房の言語論については、稿を改めて論じたいと思います。

2012年9月27日木曜日

月刊「もぐら通信」を発刊いたします。




安部公房の読者であるあなたへ、

月刊「もぐら通信」を発刊いたします。

安部公房の読者であるあなた、安部公房に関心と興味のあるあなたのために、もぐら通信を、今月末日を初回として、以後毎月末に、発行致します。

安部公房という作家をよりよく知るために、また安部公房という作家を介して、読者同士が、お互いによりよく知り合うために、この通信を発行するものです。

是非、ご登録戴ければ、ありがたく思います。

登録の入り口は、次のURLアドレスへいらして戴いて、画面に向かって右上に、少し小さめの文字ではありませすが、「月刊「もぐら通信」への登録」とある文字をクリックして、お申込下さい。姓名のうち、姓の入力だけで結構です。

http://abekobosplace.blogspot.jp/

あなたが安部公房の愛読者であれば、哲学的思索において、厳密なるこの通信発行の定義を必要とするかも知れません。

そのような方は、もぐら通信の定義と、もぐら通信の目的の定義をしておりますので、以下のURLアドレスにいらして、一層深く、それらの定義をご覧いただければと思います。

http://abekobosplace.blogspot.jp/2012/09/blog-post_17.html

そうして、あなたが読者であるばかりではなく、投稿者としてこの活動に
ご参加くださることを、編集部一同、願っております。

もし安部公房についての文章を既にお持ちでしたならば、またこれからお書きになるというのであれば、是非ご投稿戴きたく思いますので、わたくし宛、次のメールアドレスにご連絡下さい。

eiya.iwata@gmail.com

今回の創刊号は、次のような目次を予定しております。

1.安部公房の愛の思想(仮題):Hiroshi Okadaさん
2.(題未定):allenさん
3.安部公房ともぐらについて:タクランケ
4.18歳、19歳の安部公房(連載第1回):贋岩田英哉
5.編集後記

もぐら通信が完成し、最終的な目次が確定しましたら、またその旨のご案内を致したく思います。

まづは、事前のご案内と致します。

よろしくお願い申し上げます。

タクランケ拝

追伸:
安部公房の広場の開設の趣旨については、次のURLアドレスにお越し下さい。

http://abekobosplace.blogspot.jp/2012/09/blog-post.html







2012年9月26日水曜日

「弱者への愛」ー安部公房の愛の思想

さて「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている―」

これは『密会』(1977/12)のエピグラフです。
安部公房自身はこの句にどんな意味と気持ちを込めたのでしょうか。

この句自体の意味についてはこう述べています。
「弱者を哀れみながらもそれを殺したいという願望。つまり弱者を排除したい、強者だけが残るということ」(*1)
強者の心の底の闇を暴き出した深いことばで、私たちをなにか惹きつける力がありますね。

この言葉はどんな思索から出てきたのでしょうか。
『密会』についての談話記事の中で次のように言っています。

「この小説で考えたのは弱者の概念なんだな」(*2)

そして展開されるのは、まさに安部公房の思想というべきものでした。
「動物の世界なら強者が生き残って、それによって進化していく」という一般的な進化論に対して
「人間の進化はその逆なんだ。この社会のなかに弱者をどこまで包含していくかが人類の進歩につながる。ぼくはこれを逆進化の法則と言っている」
と、社会的弱者救済や社会福祉の思想的根拠になるものを深くとらえています。

さらに「民主主義の概念もこの法則からにじみ出てくるようなものでないといけない」と言っているのには、民主主義を政治体制や市民的権利または基本的人権の制度ととらえる一般的な考え方に対して、より深いヒューマンな理解を求めていて考えさせられます。

こうして見ますと、冒頭のエピグラフは単に気の利いたセリフではなく「強者が弱者を淘汰する」動物的進化論が人類の社会を侵していることを暴き出し、弱者を重視した社会の構築をうながすべき警鐘であったとい言えましょう。

ここにおいて「弱者への愛」は「強者からの施し」ではなく、「人類進化の必須の原則」となされ「殺意」は出る幕がなくなるのです。

昨今の新自由主義経済政策による貧富の拡大、さらには生活保護へのバッシングなどの傾向が、いかに安部公房の先進的な思想に反しているか、明らかですね。

そして安部公房の思想はさらなる高みに進むのです。
                               (続く)

(*1) 「都市への回路」(インタビュー)1978/4 全集26
(*2) 「密会」の安部公房氏(談話記事)1977/12 全集26

〔OKADA HIROSHI〕

2012年9月25日火曜日

安部公房の願った読者との関係はどんな関係であったのか?


安部公房の願った読者との関係はどんな関係であったのか?

箱男を脱稿したあとに行った、安部公房の講演を、YouTubeで聴くことができる。

これを聴くと、わたしの劇しか観ないで欲しい、わたしの劇以外の劇は観ないで欲しい、そういう観客であって欲しいと強い口調で言っているところがあります。

これは、大人からみると、非常に子供っぽい感情の表白です。大人ならば、だれでも、現実の関係とは、そういうものではく、関係の濃いひともいれば、薄いひともいて、好き嫌いを問わず、様々な人間たちと交際しなければならず、またそのような交際、交流を前提にして生活をしています。そうして、垂直方向の、また水平方向の、そのような関係の中で約束をまもることを道徳と呼んでいるわけです。

しかし、安部公房は違います。わたしとあなた、俺とお前の関係で、そういう関係を築きたいし、維持したいのだと言っているのです。俺のいうことだけを聴いてくれる友人が欲しい。

何と言う一方的な要求であり、願いであることでしょう。

安部公房の10代の友人、金山時夫という友人、「終わりし道の標べに」の扉のエピグラムに名前の書かれているこの友人は、安部公房にとって、そのような友人であったのだと思います。

安部公房全集の第1巻の「贋月報」に当時を回顧している児玉久雄という方の言葉では、「彼(安部公房)にとって故郷って何だったのか、金山って何だったのか、これが僕にとってわからない。その三年間しか空白がなかったのに。金山のことは、僕は安倍を通しては知っているんです。安倍と会うときは、金山と一緒に会っているから。金山はいつも安倍の後ろにいた。黙って立っていた。僕は、むらむらっとしたのを覚えています。嫉妬を覚えたんです。」と語っている。

この証言をみて解る通り、金山時夫は、

1。安部公房が社会(他者)と向き合うときにいつも安部公房の前にではなく、後ろに控えていた人物なのです。それも、二人の関係に第三者が嫉妬を覚えるような関係。金山時夫とは、そのような友人であった。つまり、

2。安部公房の幼い感情、しかし純粋な感情を理解していた、俺の言うことを聴いてくれ、俺の言う事だけを聴いてくれ、他の人間の言う事なぞ聴かないでくれ、俺の世界を理解してくれという少年安部公房の欲求に答えることのできた唯一の友達だったのだと思います。

3。そのような関係であったから、金山時夫はいつも安部公房の前にではなく、後ろに立っていたのです。そうして、安部公房の友人に嫉妬心さえ起こせしめた。

これは、安部公房が、読者と自分の関係を1:1で、作品という媒介(メディア)を通して構築したいと願っていたことを意味しています。

そのための形式が手記という形式でした。この手記という形式を、安部公房は「終わりし道の標べに」以降、頻度高く使うことをしています。

何故、そのように手記という形式を愛用したかは、以前の記事「「終わりし道の標べに」(安部公房)を読む:第1のノート 終わりし道の標(しる)べに」(http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html)に書きましたので、それを参照戴ければと思います。

いづれにせよ、安部公房が読者と築きたかった関係は、ネットワークの類型(分類)でゆくと、スター型のネットワークです。

これは、安部公房のすべての主人公の意識の姿、他者との間に求める関係の姿だと言って良いでしょう。図に描くと、このようになります。ご興味のあるかたは、ダウンロードなさって下さい。


10代の安部公房の詩では、網を張る蜘蛛に詩人を擬している詩がありますが、そのような蜘蛛の巣のイメージに、スター型のネットワークはとてもよく似ていることがお解りでしょう。(「安部公房の詩を読む2」(http://shibunraku.blogspot.jp/2010/03/2.html)を参照下さい。)

思考の問題としては、安部公房ほど、多視点、多次元で物事を考えることのできる人間はいないだろうと思われるほどなのに、いざ生きた人間として、自分自身と生身の読者の関係を考えるときには、そのような1:1の、あるいは1:Nの、スター型のネットワークの関係を求めた作家だということが言えると思います。


〔岩田英哉〕

2012年9月24日月曜日

安部公房の顔



安部公房の顔


安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品があります。これは、1947年の作品。安部公房24歳。

第1の手紙は、詩と「詩以前の事」について、
第2の手紙は、歩道について[これは既に「問題の下降に依る肯定の批判」(1942年)という10代のエッセイでは、遊歩道としてっ出て来たものと同じイメージのものです。]
第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]

と、このように、第3と第4の手紙に、顔が出て来ます。

ここに書かれている顔について、理解したところを書きたいと思います。

何故顔と手が主題となるのかということですが、これが実に安部公房らしいのは、顔には人相見があり、手には手相見があって、その人間の人生を過去、現在、未来とみることのできる対象となっているから、その主題となっているのだと思います。

そうして、安部公房の顔も手も、ところが全くその期待(時間の中人間の人生を読むということ)を裏切って、時間というものを考慮に入れることなく、むしろそれを捨象して、時間のない存在として、描かれているのです。

手については、確かにそうでした。それでは、顔についてはどうでしょうか。

安部公房全集の第1巻に「没我の地平」と題された詩集の「光と影」という次の詩があります。その第1連をひきます。


お前の手より名を奪え
お前の胸より名を奪え
夜の標(しるべ)は無名の主我
大地も落ちる無名の星
目覚めに夢む四季の調べを
汝が顔(かんばせ)に読み取るな


この詩に歌われている通りに、散文の世界でも、安部公房は手から名前を奪い、手のあることを「詩以前の事」となし、顔についても同様に、これを「詩以前の事」となして、「四季の調べ」という時間の流れを捨象して、「汝が顔に読み取るな」としたのです。

そのような存在の顔のことを、安部公房は第3の手紙で「運命の顔」と呼んでいます。

この「運命の顔」について、主人公またはこの手紙の語り手に話をする「必ず後ろで絶えず囁き続ける誰か」が登場するときには、必ず語り手は窓辺にいるということが、重要です。

第3の手紙では、窓についてこうかかれています。


窓、それもめったに存在さえ気付かれない、或る精神の媒介、それを透かして呼吸した夜は自分の内部に在って而も自分の名前に属さない部分だ。万物の中で振動している量子の触感だ。その中では、人間である事の宿命的な忘却が、幻覚と云う名前で捨て去って了った、或る実体がよみがえった来る。


これが安部公房の窓です。当時の書簡を読むと、安部公房は友人達と、この窓について議論をしていたことがわかります。


さて、語り手がそのような窓辺にいるときに「運命の顔」について影の男が語ります。

この男の顔、その「運命の顔」を最初みた影の男は、次のようにその顔のことを言っています。


ひょっと其の男の顔を見上げると、これは又どうした事だろう。正に奇怪至極、想像を絶したものに変じていた。でっぱる所が窪み、窪む可き所が飛び出した、まるで裏返しにした様な顔なのだ。一寸能面を裏側から見た様な感じだった。たちまち測り知れぬ恐怖が毛を逆出たせ、鳥肌にして、暗黒の奈落へつき落とされる様な目まいを感じた。


この顔は、一旦顔に装着すると取る事ができなくなり、顔に密着して自分の顔と同じ顔になる顔です。鏡でみると、それ以前の顔となんら外見上は変わらない。

(話は飛ぶようですが、埴谷雄高ならば、このことを自同律と呼び、それは不快だといい切ったことでしょう。)


その顔のもたらした世界のことを第4の手紙では、次のように書いています。


それは即ち、内部と外部とが入れ替わった様な世界だった。(途中略)、云い代えれば呼吸の様な、心臓の鼓動の様な世界だった。そして動くもの、変化するもの、吾々がその中で生活を営む可き環境だとか運命だとか云うものは、その逆に内部から発し、未知なものとして、今迄は外部と呼んでいた、新しい内部に浸み出して行くのだと云う事を知ったのだ。つまり、私の顔は裏返しになっていた。

(途中略)唯、私は一つの行為に身を沈める丈だった。それは停止した時間の中で、各瞬間を想像して行く事だった。云い代えれば、観察し、名付け、愛する主体である存在そのものに身をひそめ潜入する、行為若しくは在り方を全うする努力と意志とでも言えはしまいか。

(途中略)

こうして私の、失われた生活、失われた運命、失われた郷愁、そして長い間忘れてい、これから後何時使われるか分からぬ鋳型の様な、潜入の刹那が始まった訳なのだ。


この文章は、そのまま後年の「他人の顔」という小説の、主人公の意志と意識の説明になっている。

〔岩田英哉〕


2012年9月23日日曜日

「弱者への愛にはいつだって殺意がこめられている」か?

安部公房がこのアフォリズムを「公然の秘密」で使ってから(*1)、安部公房ファンの中でこの句が頻繁にリピートされています。Twitterでもすっかりおなじみになってしまいました。

だがその提示はいつもその「意味」にまで達していないようです。つまり意味は自明とされているのです。だが果たして「自明」でしょうか。

たとえばかつてTwitterで次のような発言がありました。
「弱者への愛にはいつだって殺意が込められている、か。安部公房はヒドイことを言うなあ。いつだって、ってことはないと思う。」

私はこの疑問を正当なものと認めたい。「いつだって」と言い切れるなら、弱者への愛は不可能なのではないか? 無償の愛は存在することを許されないのか? 常に殺意を内包しながらでないと愛せないのか? いやそんなものを愛と呼ぶことは出来ないはずだ!

だが問題は「弱者」とはなにか、ということです。このとらえ方には二面性があり得ます。ひとつには「社会的弱者」というように、定義することが出来る存在論的なとらえ方です。この場合、これに対する愛にはいろいろな形があり得るし、無償の愛も当然あり得よう。上のTwitterの意見もここからの疑問であると思われます。そして意味に言及しない引用も、この句を客観的事実であるように取り扱っている以上、この存在論的立場にあるはずで、それは「いつだって」という句に矛盾を含んでいると言えましょう。

もうひとつのとらえ方は「弱者とは、(彼、我々が)弱者と思っている者」という認識論的なとらえ方です。すなわち「愛する主体」が相手を「愛を施されるべき弱者」と見なしているとき、優位な立場から傲慢の極致にあり、そのとき愛は容易に殺意に転化しうる。ここでは「いつだって」そうである。

そしてこの認識論的な立場においてこそ「いつだって」という語が成立するとすると、ここで安部公房の「犯罪的なまでの周到さ」(*2)に思いを致さなければならない。告発されているのは実に「愛の主体」たる我々であるのです。相手を「弱者」と見なすことの犯罪性を告発されているのです。

ならば「弱者」を弱者と見ない愛の形を我々は追究しなければならないに違いない。それは弱者、強者を大きく包含した新たな愛の形であるはずです。(*3)

以上、簡単なことをむつかしく述べてみました(笑)
なお、この句に対する安部公房の意図には今回関係なく書いています。
安部公房の「弱者への愛」はこの句以上に広がりがあり、いずれまた触れるつもりです。

(*1)1975/1「公然の秘密」、1977/6「イメージの展覧会」、1977/12「密会」のエピグラフ、に多少表現を変えて使用されている。
(*2)「卒論審査のために安部公房をまとめて読み直してその犯罪的なまでの周到さに戦慄。」郷原佳以http://twitter.com/deja_lu/status/32510603700469761 より借用
(*3)強者への愛は「敬愛」と呼べよう。同等の者には「友愛」が当てはまるだろう。弱者への愛は古来「仁愛」という言い方があった。家族愛、恋愛の愛は強弱立場が入り交じるように思われる。

〔OKADA HIROSHI〕

安部公房の手3


安部公房の手3


安部公房全集の中にある「手について」という題のエッセイは、極く短いものでした。

さて、今このエッセイを読みますと、やはり安部公房は手というものを「むしろ沈黙の領域に属するもの」だといい、「ものとの関係で初めて雄弁なので」あり、それは「主体の飾りもの」ではなく、それは人間関係の内外にある「見えない物や、見える物が、複雑にからみあいながら埋めている」その「沈黙の領域」を、眼や口とともに、示してくれるものだと書いています。

また、「手は、眼や口のような、直接的な伝達の器官ではない。」と書いていますので、手は間接的な伝達の器官ということになります。

このような文意を読んで来て思う事は、安部公房の思考の中心にある次の思想です。それは、

物事の本質或は意味は、関係にあり、従い、普通ひとが二義的だと思っている領域に、それは存在する

という思想です。

これは、そのまま安部公房の言語論、あるいはクレオール論の核心でもあるでしょう。それから、とうとう書かれることのなかったアメリカ論の。

同じこの思想を、「第1の手紙~第4の手紙」(1947年。全集第1巻)では「歩道」と呼び、10代の散文「問題下降に依る肯定の批判」(1942年。全集第1巻)の中では「遊歩道」と呼んでいるものに同じです。

言語論としての安部公房の言語論は、上のことからも明らかであるように、言語機能論です。

安部公房の言語論については、また稿を改めて論じたいと思います。


〔タクランケ〕

2012年9月22日土曜日

安部公房の手 2


安部公房の手 2



安部公房全集第1巻に「第1の手紙~第4の手紙」という作品(1947年。安部公房24歳)にある手について、引き続き知ったことを書いてみたい。


第3の手紙に書かれた手、手袋をした手は、その手袋を持参した男の言葉によれば、のっぺりしているばかりではなく、また「若し手相見が見たら何と思うでしょうね。過去にも未来にも全く運命を持たないて……人相観なら定めし腰を抜かして了うでしょうよ。」といわれる手です。

のっぺりといい、またこの時間の無い手、時間を捨象した手ということからいっても、これは何か存在(das Sein)という以外にはない何ものかなのでしょう。

こののっぺりとして時間のない状態、これを後年安部公房は劇団を立ち上げて演技指導するときに、俳優に要求して、neutralな状態と呼んだものではないかとわたしは思います。

それは、確かに「詩以前の事」です。

この手袋の手が「詩以前の事」であるということは、また同じ第3の手紙の中に引用されている次の詩の後半部分、第2連によって明らかです。


心にもなく招かれて
想ひのほとり ほころべる
冷たき花の 涙かな

名も呼ばず 求めもせじに
たそがれの 面(おも)に画ける
宿命(さだめ)の花の 散りしかな


「名も呼ばれず 求めもせじに」とあり、「たそがれの 面」というのは、のっぺりとした時間の捨象された手のイメージを含んでいます。

面白いのは、この詩の前半部の「心にもなく招かれて」というところです。

安部公房の小説や劇の主人公は、みな「心にもなく招かれて」別世界の迷路を彷徨うのではないでしょうか。

さて、このように考えて来ますと、前回書いた


安部公房らしいのは、この手の出現が、「それは新しい手の出現の為ではなく、元の見順れた、私の手の喪失の為の悲しさだった様に想う。」と書いているところです。


と書きましたが、「元の見順れた、私の手の喪失」とは、個別のだれそれさんの手が、のっぺりと時間の無い手になってしまうということ、存在の手になること(die Hand des Seinsというだろうか)を意味しているのであり、その喪失の感情が悲しみだということになるでしょう。

わたしはここまで書いて来て、荘子という支那の古典にある次の話を思い出しました。それは、荘子の第7 応帝王篇にある話です。

渾沌の住んでいる土地に、ふたりのものが行って、饗応を受けた。感激したふたりはお礼に混沌という生き物(これは自然の象徴でしょう)に7つの穴を開けて、目や鼻の穴やらをつくったら、渾沌は死んでしまったというものです。

渾沌を存在と言い換えてもよいと思います。

従い、道ばたに落ちている手というものも、確かになりは手なのですが、今まで実はだれも見た事のない手であって、存在の手であるからには、名前を呼ぶ事ができずに、ぎょっとすると安部公房は、娘のねりさんに言いたかったのだと思います。

それは、手ではない手、名辞以前の何ものか、なのです。

次回は、安部公房の顔について、同じ「第1の手紙~第4の手紙」から論じてみたいと思います。

(この稿続く)


〔タクランケ〕

2012年9月21日金曜日

安部公房の手



安部公房の手


安部公房は、手というもの、この人体の一部について、若いころから特別な注意を払っていました。

リルケは10代にリルケに没頭していて、リルケというひとも手に深い意味を見つけたひとですから、その影響でしょうか。

しかし、影響とは一体何でしょうか。

リルケの手は、晩年の大作2つのうちのひとつ、オルフェウスへのソネットを読みますと、その第2部のソネットXXIV(http://shibunraku.blogspot.jp/2010/01/xxiv2.html)において、粘土は手で壷を創り、壷はその前提として、そこに入れる小麦や酒やら共同体の生産を組織的にして、そのような社会的な役割を持っている壷を、人間の手がつくると歌っています。

手が壷をつくり、そうして壷には水と油が満ちて、共同体が栄える。手の仕事は定住に関係があるのでしょう。

しかし、仮にリルケの手に想を得たとしても、安部公房の手は、全く独自の手になっています。

安部公房の娘さんの安部ねりさんの著した「安部公房伝」(196ページ)には、次のような会話が父と娘の間にあったことを伝えています。


「ねり、手って何か特別な感じがしないか」と父は私に話しかけた。私が「どう特別なの?」と言うと、父は「たとえば道に、手が落ちているとするだろう。そうしたら、とてもびっくりするじゃないか」と脱線をし、「それなら足首が落ちてたってびっくりするし、首が落ちていたらもっと驚くじゃない」と、親子らしいすれ違いをしてしまった。


このような手は、もうリルケの手とは全然違うという感じがします。

道ばたに落ちている手、です。


安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品がある。これは、1947年の作品。


第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]

さて、この第3の手紙に書かれた手、手袋をした手は、「のっぺりとして、しわ一つない、真上から明かるい電燈で輝らされた手のひらは、まるで何かなめくじの腹の様な不気味さ」のある手になっているのでした。

安部公房らしいのは、この手の出現が、「それは新しい手の出現の為ではなく、元の見順れた、私の手の喪失の為の悲しさだった様に想う。」と書いているところです。

従い、道ばたに落ちている手というものも、何か本来人間の一部であった手が、その手の機能、働きを喪失することになる、そのような手であるのかも知れません。

このあとに書かれる様々な小説にも、果たして、手が出ているのかどうか。出ているとすれば、それはどのように書かれているのか。

ご存知の方は、お教え下さい。


(この稿続く)


〔タクランケ〕





2012年9月20日木曜日

月刊「もぐら通信」購読用の登録窓口を設置しました





月刊「もぐら通信」購読用のメール登録窓口を設置しました。

今迄、もぐら通信用の登録窓口としていた場所は、実はこのブログの記事の配信用の(RSSの)登録場所でした。

その記事の配信の登録は、それはそれで残しておき、新しく月刊「もぐら通信」専用のメールアドレスの登録場所を設置しましたので、こぞってご登録戴ければと思います。

設置場所は、ブログの画面に向かって一番右上です。

「月刊「もぐら通信」への登録」と書いてありますので、これをクリックなさって下さい。

登録画面が現れます。

今迄、月刊のもぐら通信の配信なのに、何故か記事の配信を受けるので、あるいは不審に思われた方もいらっしゃるかと思いますが、ご容赦下さい。

少しづつ、よりよい広場にして参りたいと思っております。


〔岩田英哉〕

安部公房にとっての詩と小説の関係3:マルテの手記




安部公房にとっての詩と小説の関係3:マルテの手記


安部公房全集第1巻に「<僕は今こうやって>」と題した、見開き2ページの文章があります。

そこにこう書いてあります。


僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云う事はもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。


「第1の手紙~第4の手紙」という作品で、手記を書く事は「詩以前の事」を書く事だと言った安部公房は、やはりマルテにならって、そうしてその手記という形式を全く安部公房流に消化し、換骨奪胎して変形させ、「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記」としたのです。

この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」のことを、後年、安部公房は「消しゴムで書く」と言っています。

そうして安部公房は、その消しゴムを以て、顔を書き、手を書き、壷を書いたのだと思います。

その手記はみな、外面と内面の果てしのない交換のことについての手記でありました。

これが、安部公房の小説の根本にあることだと、わたしは思います。

これが一体どのようなことなのかは、安部公房全集第1巻の「詩と詩人」に詳しく論ぜられております。次のURLで、安部公房のこの10代の散文を詳しく読み解きましたので、お読み戴ければと思います。


2012年9月19日水曜日

安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学



安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学


安部公房の詩集の題名は「無名詩集」という。


前回書いたように、安部公房の小説はすべて「詩以前の事」を書いたものである。特に手記の形式の小説では、そのことがはっきりと出ていると思う。

さて、そうだとして、またそうであれば、安部公房の小説の主人公はみな、無名の人、無名子であるということができる。

そして、主人公は無知の人間として描かれている。

これは、そのまま愚者の文学と呼んでよい領域の文学のひとつが、安部公房の文学だといってもよいと、わたしは思う。

無知な人間ということは、世間的に見れば、役立たず、無能な人間ということであり、馬鹿者、阿呆者ということである。

イワンの馬鹿(ロシア)や、阿呆物語(ドイツ)等々、他にも色々と世界中に、多分民話のような形であるのではないだろうか。

また、無知な人間ということから、そのような人間は成長して行くわけであるから、安部公房の小説は、無知な主人公の成長を描いた一種のBildingsroman、ビルデゥングス•ロマーン(教養小説)と見る事もできると思う。哲学的な、人間の意識の成長と変化、変貌を描いた相当抽象的で、その意味では相当変わったビルデゥングス•ロマーンではあるけれども。

こう書いて来て、このように考えるのであれば、トーマス•マンの魔の山も愚者の文学だということに気がついた。主人公は、なんということのない平凡な名前ハンスという名前の主人公である。


〔岩田英哉〕

2012年9月18日火曜日

安部公房にとっての詩と小説の関係について


安部公房にとっての詩と小説の関係について

安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品がある。これは、1947年の作品。

これは、安部公房が詩について書いた文章です。手紙の体裁をとっていて、いつも誰か見知らぬ相手、あるいはもっと言えば安部公房自身の中のもうひとりの読者に向かって書いている手紙体、または手記の形の作品です。

そうして、その安部公房の典型的な手記の形式を以て、詩について書いているのです。

第1の手紙を少し読み進めますと、次の一節があります。


驚かないで下さい。此の僕の取った未知と云うのは、<詩以前の事>について書く事だったのです。勿論それにこだわる事は止しましょう。だが、<詩以前の事>は、森に包まれた山路の様なものです。


この一文で明らかなことは、安部公房にとって、手記という形式の散文は、その言葉をそのまま信じると「詩以前の事」を書いているものなのである。そうして、これは、その通りだと信じてよいと思われる。

この「詩以前の事」の「詩以前」とは、時間の中で詩の生まれた先後をいうのではなく、むしろ全くその逆で、時間を捨象して(これが安部公房らしい)、「詩以前」と言っているということなのです。

詩の前にある事、そうして詩の基礎になっている物事を書く事、それも手紙や手記の形式でそのような「詩以前の」物事を書く事、これが安部公房にとっての散文の意味であり、それがひとに小説と呼ばれるものになった最初の姿なのだということがわかります。

従い、安部公房にとって、詩と小説の関係は、詩は詩、「詩以前の事」を書いたのが小説ということになるでしょう。

安部公房がこのように考えて小説を書いたということは、とても大切な事だと思います。

安部公房は無名詩集をとても大切にしていて、小説家として名をなしてからも、自分のよき理解者には、この詩集を手渡して、そのこころを表していました。

追記:

第1の手紙は、詩と「詩以前の事」について、
第2の手紙は、歩道について[これは既に「問題の下降に依る肯定の批判」(1942年)という10代のエッセイでは、遊歩道として出て来たものと同じイメージのものです。]
第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]

遊歩道や顔や手は、安部公房がその種子から大切に育て、はぐくんだイメージ、形象のひとつです。

これらについては稿を改めて論じたいと思います。



〔岩田英哉〕

2012年9月17日月曜日

安部公房の窓





安部公房の窓

安部公房は、10代のころから、窓というものに特別の注意を払っておりました。

今、ざっとわたしの記憶にある、安部公房の窓の出てくる資料を挙げると次のようになります。

1。中埜肇宛書簡(第4信)の窓氏(1943年)
2。「詩と詩人(意識と無意識)」の窓(1944年)
3。「君が窓辺に」という詩の窓(1944年)
4。「第一の手紙~第四の手紙」の窓(1947年)
5。「箱男」の窓(1973年)
6。「カンガルー•ノート」の窓(1991年)

これ以外にも、もっとたくさんの安部公房の窓があると思います。ご存じの方は、ご教示下さい。

さて、最初の中埜肇宛書簡(第4信)の窓については、次のように書かれています。


ニーチェは僕の目に益々偉大に、物苦しくうつつて来ます。
没落は、実は今の所ある非常に大きな暗礁にさしかかって居るのではないでせうか。十九世紀の歴史的意義は果たして何だつたでせうか。……新しい登場人物。別離と窓氏。

中埜君、どうかニーチェが気が狂ったと云う事と、最後迄ワーグナーの悪口を云ふのを忘れなかつた……あきなかつたと云う事に御注意下さい。人間はあの悲しい反照なくしては自己証認すら足場をなくするのです。……僕がふと見上げる時、人々はつめたく窓をとざす。「これは君の趣味ではないのかね」


とある通りを読むと、ニーチェの名前があるように、そうしてニーチェの創造した主人公、ツァラツストラがそうであかjのように、概念の山の戴きから下界の詳細な現実へと下降して来る、その意識のもとに書いた「問題下降に依る肯定の批判」(1942年)で書いたことを意識して、10代の安部公房は、この手紙を書いたのだと思います。

没落の生活をする中で、どうも窓は、他者との通路のようです。また、この当時の安部公房は、窓ということと別離を一緒に考えていたということがわかります。

「詩と詩人(意識と無意識」(1944年)の中に次の文章がありますので、引用します。この作品は2部構成になっていて、第1章が「1。真理とは?」、第2章が「世界内在」と題されていて、考察が書かれています。窓が出て来るのは、この第2章です。少し長い引用となります。


 自己の内面に心をはせて、あの心の部屋と自分に全く無関心な外界との分裂に気付く人は、その間を隔てている永遠の窓を幾度も押し開けようと試みる。けれど何時でも、その窓を押し開けようとして差しのべられた手は力無く、実体を伴わぬ幻影のように侘しく目的を放棄して終わらねばならない。その窓は永遠にと閉ざされているのだ。

 しかし、その分裂の悩みの裡に憧れたその窓の外には、果たして今吾等が見ているが儘の姿が現存するのであろうか。果たして此の窓ガラスは透明に外界の形象をありの儘に我等の孤独の部屋の中に送り込んで来るのであろうか。若しかして此の色とりどりの外界は単に窓ガラスに巧みに画き出されて行く幻ではないのか。それとも此の窓は吾等の心の反照たる鏡なのではなかろうか。

(省略)

 此の窓が、これも亦やはり人間の在り方であると言う事は誰しも認める事だろう。それならば、その窓を通して(と思われる)見えるあの外界の形象も亦、その窓に属するものと考えなければいけないのではないだろうか。と言うのは、その外界は実存すると否とに不拘、既に窓を通して見たと云う特殊の制約を性格として附加されていて、しかも其の窓は人間の在り方と云う体験的解釈である以上、その外界は明かに吾等の体験的解釈を通じてのぞき見たものに他ならないのである。それ故にこそ外界は、<<かく見ゆる>>のである。


この窓は、安部公房の一生を通じて、大切なモチーフ(動機)のひとつとなっています。

安部公房は、カメラがとても好きで、写真をたくさん撮っています。安部公房にとってのカメラ、写真撮影という行為の意義は、この10代に思考して得たこの窓に、その淵源があるのだと、わたしは思います。

そうして、それは、上の引用にもありますが「のぞき見」るという行為は、カメラを通じて行われる、犯罪的な、一種の共犯者としての感情に通じていると思います。

箱男の段ボールの窓を思って下されば、それはひどく自明のことのように思われることでしょう。

そうして、安部公房の撮影する写真が、共同体の内側ではなく、その外側にある塵捨ての場所であったり、また建物の間にある、薄汚れたような、薄暗い、また人の知らぬ隙間の空間、いってみれば、空間と空間の接続部分であるということが、深い意味を持っていると思います。

「第一の手紙~第四の手紙」では、語り手である主人公に仮面と手袋を置いて去った人物が窓辺にいたところで、その人物に仮面と手袋を渡す(その前の)人間が姿を表すのです。

勿論、その仮面とは、後年の他人の顔の仮面であり、顔そのものでありますし、手袋とは、安部公房が「手について」というエッセイで後年書き、また安部公房スタジオの役者達に伝えた、存在の手、neutralな、人間の誕生以前の手なのです。(この手については、散文楽の「安部公房の手3」に書きましたので、お読み戴ければと思います:http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_15.html

「君が窓辺に」という詩の窓は、次のように歌われています。詩の全体を引用します。


光より 光の方へ想ひ流れて
静かなる胸の動きを 君が窓辺に聴き給へ
我が立つ声 嘆きも忘れ
黙すかの如く 君が窓辺に

石の如(ごと) 面をふせ ひそかに偲びて
麗しの陰影は君が姿を居かこみぬ
語るも忘れ もだしためらひ
なげくが如く 君が窓辺に

歩み給へ別離こそ まことの愛ぞ
涙の始め 笑ひの始め
ほのかなる 天使の姿
吾れなえはてし 君が窓辺に

一人して うまし木の実を
なさけだに おとししものを
一人居の天使 吾れに許さじ
涙せし如く 君が窓辺に……


これは、一人称(わたし)の窓辺ではありませんが、わたしと君との間に窓があります。

「詩と詩人(意識と無意識」の窓の文章を読むと、この窓が二人称である君を理解する、君を反照する窓であるのでしょう。そうして、一人称であるわたしもまた窓を持っている。

最後に「カンガルー•ノート」の窓を、その小説の最後からひいいてみたいと思います。もう、ここはほとんど「箱男」の世界と同じ情景です。


 箱が窓の下に据えられ、ランニング•シャツの一群が、ぼくを窓から引き下ろそうとする。(省略)

北向きの小窓の下で
橋のふもとで
峠の下で

その後
遅れてやってきた人さらい
会えなかった人さらい
わたしが愛した人さらい

   遅れてやってきた人さらい
   会えなかった人さらい
   わたしが愛した人さらい

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)


この晩年の詩には、10代の安部公房には願っても得られなかった軽味、ユーモアがあります。

そうして、窓といい(それも北という方向を向いている)、橋といい、また峠といい、いづれも接続する場所だということが、共通していることで、安部公房のセンス(感覚)、生きているという感覚と、生き生きとしたイメージは、これらの接続する場所から生まれて来たのだということがわかります。

これは、10代の散文「問題下降に依る肯定の批判」では「遊歩道」といい、「第一の手紙~第四の手紙」では「歩道」といった場所、通路と全く同じものを意味しています。

このような安部公房の思想を一言でいうと、それは、

物事の本質或は意味は、関係にあり、従い、普通ひとが二義的だと思っている領域に、それは存在する

という思想です。

これが、そのまま晩年のクレオール論(言語機能論)の骨格であり、また、アメリカ論の骨格であった筈です。

これらの論文を是非読みたかったと思うのは、わたしひとりではないと思います。



〔岩田英哉〕


  

「もぐら通信」発行の趣旨


以下に簡単に、もぐら通信の趣旨、即ち、もぐら通信とは何かと、その発行の目的を定義しましたので、お読み戴ければと思います。




1。もぐら通信とは何か

もぐら通信とは、安部公房の読者が、安部公房についての知識や経験を寄稿することを通じて、安部公房について知るのみならず、読者同士が交流を深め、お互いによりよい理解、より深い理解をするための、月刊の媒体(メディア)です。


2。もぐら通信発行の目的

もぐら通信発行の目的は、安部公房の読者が、安部公房を巡って、自由に楽しく交流し、安部公房についての知識や経験を一層深めるようになることです。

[補足説明]
安部公房の読者、ファンであるならば、だれでも投稿することができます。投稿なさりたい方は、わたしのプロフィール•ページにある「メール」の文字をクリックして、ご連絡下さい。


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〔岩田英哉〕

2012年9月16日日曜日

安部公房の広場の開設

安部公房の好きな読者のための、安部公房の広場を開設しました。

安部公房が好きだという方なら、だれでも投稿ができます。

投稿したいという方は、わたしのプロフィールから、メールにてご連絡戴ければと思います。

このブログに、あなたの記事を掲載致します。そうして、安部公房の読者に読んでもらいたいと思います。

更に、これから毎月、「もぐら通信」を発行致します。

もしあなたにご了解戴けるならば、安部公房の広場にご投稿戴いた記事も編集して、もぐら通信に掲載し、日本語圏の愛読者にお届けします。



よろしくお願い申し上げます。

追伸:
追って、「もぐら通信」の趣旨を投稿致します。



〔岩田英哉〕