『燃えつきた地図』の中の三島由紀夫
~二人の交わした時間論について~
「第一時限の論理学の講義がおわり、血洗いの池を囲む森の小径を歩きながら、二人はその話(筆者註:恋と世の終末と死と権力と金の話)をしたのであるが、第二時限がはじまる時が迫り、今来た道を引返した。秋の森の下道には、目に立つさまざまのものが落ちていた。湿って重なり合い茶いろの葉脈が際立った夥(おびただ)しい落葉、団栗(どんぐり)、青いままにはじけて腐った栗、煙草の吸殻、......その間に、ねじけて、白っぽい、それがいかにも病的に白っぽい毛の固まりを見つけて、本多は立止まって瞳を凝らした。幼い土竜(もぐら)の屍(しかばね)だとわかったときに、清顕も蹲(うずく)まって、朝の光を頭上の梢がみちびくままに、黙ってこの屍をつぶさに眺めた。
白く見えたのは、仰向きに死んでいる胸のあたりの毛だけが白いのが目を射たのである。全身は濡れそぼった天鵞絨(ビロード)の黒さで、小さな分別くさい掌(てのひら)の白い皺(しわ)には泥がいっぱいついていた。足掻(あが)いて、皺に喰い込んだ泥だとわかる。嘴(くちばし)のような尖った口が仰(あお)のいて裏側が見えるので、二本の精妙な門歯の内側に、柔らかな薔薇色の口腔がひらいていた。」
他方この間、三島由紀夫との関係では、安部公房は、
1。1966年2月1日に、三島由紀夫との対談「二十世紀の文学」で語り、
2。1966年5月2日に、三島由紀夫自作の映画『憂国』について「映画「憂国」のはらむ問題」と題したエッセイ(これ自体既に三島由紀夫論ともいうべき論になっており、既にこの時三島由紀夫の死を予見しております)を書き、
3。1967年5月1日には、当時の毛沢東率いる中国共産党による文化大革命と呼んだ暴力的な文化破壊に対して抗議した座談会「われわれはなぜ声明を出したかー芸術は政治の道具かー」で、川端康成、石川淳、三島由紀夫らと出席、座談にて意見を述べ、
4。1967年9月30日:小説『燃えつきた地図』を発表し、
という、このような関係になっています。
安部公房の読者ならば、『燃えつきた地図』に三島由紀夫が登場するのか、と言って驚くことでしょう。それが、登場するのです。姿を変えて、それも上等に「言葉によって存在する」ことが、三島由紀夫と共有したことの一つだと死後に語る安部公房らしく、その語彙を使って、三島由紀夫を真似て、しかし其の語彙をすっかり自己のものと成して、『春の雪』の第18章にもぐらを登場させたお礼を、三島由紀夫にしているのです。これは、なんとまあ、贅沢な、このような肝胆相照らした作家同士の高級な、遊びの世界という以外にはありません。
私がこのことに気づいたのは、ナンシー・K・シールズ著『安部公房の劇場』(安保大有訳、新潮社刊)によってでした。この本を読みますと、このアメリカ人の女性は、本当によく安部公房を理解していることがわかります。それゆえに、安部公房担当の編集者新田敞の忠言「安部の友情は長続きしない」という、安部公房が「わたしに反感を抱くようになった時、あらかじめ心構えを作っておけるように、わたしのためを思って言ってくれたのである」が、しかし、この言葉にもかかわらず、「そういう事態は起こるはずもなかった」し、「わたしたちは友人になり、ずっと友人でありつづけた」理由なのでありましょう。(同著、212ページ)
この女性は実に絶妙な筆の捌(さば)きで、まづ安部公房がリルケに如何に「深い感銘を受けてい」るかを語り、シュールレアリズムの画家ルネ・マグリットの絵『ゴルコンダ』を語り、安部公房の「芝居では、男が魚や鞄になる場合のよう」な「荒涼たる現実の中に不条理な遊び心」のあるのを語り、安部公房の「位相幾何学に寄せる愛着」を語り、この順序で語り継いで、その後に、安部公房の芝居が観客に与える効果として、『燃えつきた地図』の次の一節を引用するのです。(同著、22ページ)
「……暦に出ていないある日、地図にのっていない何処かで、ふと目を覚ましたような感じ……この充足を、どうしても脱走と呼びたいのなら、勝手に呼ぶがいい……海賊になって、未知の大海めざして帆をあげるとき、あるいは盗賊が、盗賊になって、無人の沙漠や、森林や、都会の底へ、身をひそめるとき、彼等もおそらく、どこかで一度は、この点になった自分をくぐり抜けたに相違ないのだ……」(全集第21巻、227ページ)
海、未知、未知の大海、出帆、海賊、盗賊、森林、これらの語彙は、三島由紀夫が十代で創造した多量の詩の世界の根幹を形成する語彙なのです。これらは、二十代以降の小説家としての三島由紀夫の世界の言葉に、そのままなっていて、小説家と戯曲家としての三島由紀夫の世界を形成しました。
点、この言葉もまた、三島由紀夫の語彙です。三島由紀夫は非常に理詰めで、哲学的にものを考えた人間で、時間とは何かを自問自答した際に、そこに存在する自分もまた、言葉との関係では点である、即ちアナログではなく、デジタルに存在するのだと、時間は前後しないと、時間を際断すると、そういう意味ではこの一点において安部公房の超越論「~以前」を理解し、共有していた、恐らくは唯一の人間です。[註1]
[註1]
三島由紀夫は遅くとも既に12歳の時には超越論を自己のものとなしております。12歳の時の詩『硝子窓』に、その論理と感情が歌われています。なんという早熟な、余りに早熟な才能でしょう。
三島由紀夫の此の考え方は最晩年のエッセイ『太陽と鉄』に、言葉と自分の関係を率直に語るところで、時間をどう考えるかということとして、次のように述べられております。
引用の冒頭の「前に述べた私の定義」とは、引用以前にも書かれた、三島由紀夫による言葉の定義を指しています:
「前に述べた私の定義を思い出してもらいたい。私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すように、書くことによって一瞬一瞬「終わらせて」ゆく呪術だと定義した(略)」
「前に述べた私の定義」とは、次のような定義です:
「終わらせる、という力が、よしそれも亦仮構であるにせよ、言葉には明らかに備わっていた。死刑囚の書く長たらしい手記は、およそ人間の耐えることの限界を超えた永い待機の期間を、刻々、言葉の力で終わらせようとする咒術なのだ。」
そうして、点といえば、安部公房の読者ならば、『S・カルマ氏の犯罪』の最後の情景で、ユルバン教授が駱駝に乗って砂漠へと出立するときに、聖書では駱駝も針の穴を通ることができるという話をドクトルと交わすことを思い出すでしょう。
このようにこれらのことを、上の註の引用も含めて考えますと、三島由紀夫の言葉は、誠に安部公房と共有するものがあります。
言葉を理詰めで考え抜いたこと、言葉は機能であるという認識、言葉との関係では点としてある時間とその連続、空白、待機、死刑囚(安部公房の演技概念ニュートラルの極限を体現した究極の役者の姿)、言葉による表現とは咒術または呪術であるという考え等々。
また、上の引用の次に「溺れ死にかけている人間」という、これも三島由紀夫の十代の詩に登場し、その後も最晩年の写真集『薔薇刑』にまで被写体として登場するほどに、三島由紀夫の本質的な語彙である溺死体に関する語彙も出てきます。これも三島由紀夫が安部公房に語った自分の文学の本質を表す言葉なのです。
さて、その三島由紀夫の愛用する語彙を巧みに取り入れて、安部公房は此の箇所を書いたということになります。この箇所を含み、この箇所の前後から、安部公房は三島由紀夫との会話や議論を相当に生かしております。この時期、安部公房が相当に親しく三島由紀夫と言葉を交わしていたことは、上記の年表からもお解りでしょう。
それが証拠に、上に引用した箇所の後に、数行を置いて、更に段落を新たにして、次の行が始まるのです:
「だが、この純粋時間が覚醒だとすれば、すぐまた夢のつづきが、立ちふさがる。料金所、短い人工の覚醒のあとの、長い夢のつづき。すぐに折り返して、こんどは上り線に乗り入れる。しかし、どういうわけか、もうさっきのようには、うまく気分が乗ってくれないのだ。(略)」
「純粋時間」が存在するかという問いに答えるべく二人は議論をしたのです。この問いは、当然のことながら、三島由紀夫の立てた問いに相違なく、何故ならば、これに対して安部公房は、リルケと同じ時間の存在しない純粋空間を主張したことであろうからです。二人はリルケを共有していました。他方、三島由紀夫の一生涯愛誦し、愛読したヘルダーリンも、安部公房は共有しておりました。これは全集第1巻に収録の『〈僕は今こうやって〉』の最後を読むとよくわかります。
三島由紀夫がハイデッガーの『存在と時間』を愛読したには、このように、理由があるのです。何故ならば、この哲学書は、時間の中に存在を求めたからです。対して、安部公房は、空間の中に存在を求めました。もしハイデッガーの著書が『存在と空間』であれば、これは、三島由紀夫のではなく、安部公房の、一生の愛読書になっていたでしょう。
上の引用の「料金所」とは、勿論、位相幾何学的な上位接続点に他なりません。それゆえに、「覚醒」の後に「すぐまた夢のつづきが、立ちふさがる」のです。このように、ナンシー・シールズの引用した箇所が、三島由紀夫の時間認識であるならば、安部公房は今度は段落を改めて、其れを裏返しにして、私はそうは思っていないのだと書くのです。それが、「料金所」を潜(くぐ)る以前の、高速道路を走行するという流れる時間という、三島由紀夫の考える時間の中での「短い人工の覚醒」と、其の後に「料金所」を「折り返し」た後のメビウスの環の安部公房の時間である「長い夢のつづき」の意味なのです。
上の複数の引用が時間論であることは、これらの引用の直前の文章からもよく判ります:
「……ぼくはもう、体の芯まで、とっぷりと騒音の中にひたされて、何も聞こえず、かえって静寂のなかにいるようだ……目にうつるものも、ただ空にまっすぐ突き刺さっている、コンクリートの道路だけ……いや、これは道路ではなくて、流れる時間の帯である……ぼくは見ているのではなく、ただ時間を感じているだけなのだ……」
「流れる時間の帯」もまた、三島由紀夫の隠喩に他なりません。上に引用した言葉の定義で、三島由紀夫が「私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すように、書くことによって一瞬一瞬「終わらせて」ゆく呪術だと定義した」(傍線筆者)ということを実際に本人の口から、安部公房は聞いたのです。それゆえに、「いや、これは道路ではなくて、流れる時間の帯である」と書いたのです。
時間を空間化する安部公房、即ち時間の中の出来事を函数関係に変換して時間を捨象して時間を空間化して其処に存在を求め(デジタル変換)、このことを言葉によって更に形象に変換(アナログ変換)した安部公房。
対して、連続する時間を言葉という呪術によって際断して点となし(三島由紀夫のデジタル変換)、時間を捨象し、言葉を用いて形象に変換する(アナログ変換)ことによって其処に存在する存在を求める三島由紀夫。誠に対照的な、裏返った関係にある、同体二顔のシャム双子のような二人です。
勿論、この場合、三島由紀夫のいう存在は、自己の肉体、純粋な筋肉から構成される自己の純粋な肉体のことです。安部公房の語彙を借りて言えば、三島由紀夫は、肉体を純粋空間にしたかったのです。そして、三島由紀夫の大好きな画家ワットー論を読むと、三島由紀夫は其の純粋空間としてある肉体を裏返しにして、その紅の美しい林檎の果肉の中にあって誰も外部からは見ることのできない芯を見せたかったことが判ります。そう書いてあります。これが、三島由紀夫の自刃の理由です。
要約すれば、安部公房は、隙間という空間の差異に純粋空間、即ち存在を求め、他方、三島由紀夫は時間の差異、時間の際断によって時間の隙間を設けることによって、そこに存在、即ち鍛錬されて純粋になった筋肉から構成される自己の肉体という純粋空間を求めたのです。
最後に、二人の共有した事と言葉についてまとめると次のようになります。
言葉を理詰めで考え抜いたこと、言葉は機能であるという認識(言語機能論)、言葉との関係では点としてある時間とその連続、他方帯として流れる時間、空白、待機、死刑囚(安部公房の演技概念ニュートラルの極限を体現した人間の究極の姿)、言葉による表現とは咒術または呪術であるという考え、そして時間と空間が差異であるという哲学的な認識と理解等々。
三島由紀夫が生理的に、如何に空間的な隙間、即ち時間のない隙間を嫌悪したかのよくわかる十代の詩があります。それは、15歳の時に書いた『石切場』という詩です。安部公房が『方舟さくら丸』という打ち捨てられた廃墟である採石場という時間のない空間を舞台にして小説を書いたのとは、全く此処でも裏返しの二人です。全部でAからDの4章から成る詩ですが、その最後のDの章を以下に引用します:
「殿堂といふものを人は見たゞらうか。
生きた墓地(はかち)といふものを
人は見たゞらうか。
天に向き 陽をおそれず
ぎりぎりな いやらしい生を噛み
わたしは厭悪する
わたしは避ける
わなゝいて立ち止まる
石切場 石群のその前に。」
(決定版三島由紀夫全集第37巻、566ページ)
「生を噛み」とある此の「生」を目的語とした「噛む」という言葉は、十代の三島由紀夫の詩の中に此れもある、三島由紀夫の文学にとって重要な言葉の一つです。生とは時間と共に、時間を含み、流れ変化してやまない「白い長い帯」、それに堪えて生きなければならない苦しみに耐えることを、15歳の少年平岡公威は「生を噛み」と、その詩の中で、何かに堪える時には、三島由紀夫はいつも対象を「噛む」と表現するのです。この用語法と、時間の中の生を生きる時に垂直方向を意識とした時の謂わば「口中感覚」は、遅くとも文字になって書かれた13歳の時の短編小説『酸模』(すかんぽ)以来、終生変わりませんでした。
最後の市ヶ谷の、あの「癩王のテラス」での檄文の中にも、三島由紀夫の生の最後の最後まで、この言葉は出て参ります。
「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」(傍線筆者)
また、引用はしませんが、『鴉の絵巻』という詩というIからIIIの章からなる詩のII章にも、石切場が出て来ます。(決定版三島由紀夫全集第37巻、745ページ)これを語り始めると、三島由紀夫論になってしまいます。
最後の話を逸脱で括るのも、安部公房らしくて良いと思いますので、こんな話で終わりに致します。
私が縁あって三島由紀夫の世界に足を踏み入れてから1年半になりますが、この間三島由紀夫のエッセイを読んで直ぐに知ったことの一つは、なるほど此れがエッセイかという驚きでした。つまり、三島由紀夫という人間は、率直に、嘘偽りなく、自分という人間について、今までどういう考えで生きてきたか、それを振り返ってそうではいけないと思ったので、今はこう考えるし、これからはこのように生きようと思うということを実に誠実に直截に語っているのです。上で『太陽と鉄』から引用した文章にある通りの嘘偽りのない率直な文章です。
このようなエッセイを読んで初めて、私は、これがエッセイならば、安部公房のエッセイが実は普通のエッセイではないことに気がつきました。
安部公房のエッセイは、散文詩だったのです。
そうであれば、その論理展開を辿ることは難しいでしょう。安部公房の世界の読者からも、三島由紀夫の世界の読者からも、安部公房のエッセイは全く解らないという声を、この間、聞くことがありました。散文詩であれば、それは、そのつもりになって読まなければ、普通のエッセイだと思って文章に当たっても、それは解らないでしょう。
そう思って安部公房全集を辿ってみると、この、エッセイと散文詩の一緒に同居した、しかし安部公房らしく整理されて書かれている、嚆矢となる文章が、『没落の書』です。(全集第1巻、140~143ページ)
このエッセイは、二つの部分からなっています。前半は、文字通りのエッセイであり、論考であり、いわゆる散文です。後半は、『概念の古塔』と題した散文詩です。前半は19世紀という世紀の、この歴史的時間の100年と詩人という主観のあり方に対する批判、批評であり、後半は、時間を捨象した存在論と言語機能論を書いた散文詩、20歳の安部公房の註釈にある言葉で言えば「存在論的現象批判、並びにその構造」です。この安部公房の存在論と、これと一体となっている言語機能論は、1970年代の安部公房スタジオで若い役者たちに何度も伝えたという言葉、即ち言葉に意味はないのだという言語機能論が既に形象化されて、詩人と「概念の古塔」の位置関係として、そうして「概念の古塔」の内部にある概念の「完全な空虚」として、明瞭に書かれております。ここに書かれた形象は、その後のすべての作品に通じております。
さて、この後半の書き方で、終生安部公房はエッセイと世間が称する文章を書いたことになります。
逸脱極まれり。