巽先生のツイートに答える我が遊歩者箱男論
今宵七夕の日に、巽先生より我がツイートへのご返信ありぬ。以下、巽先生の言葉を頼りに、ざっと思ったことを、思うままにメモのように書いておいて、後日の安部公房論の一助といたします。巽先生のご返信を誘いし我がツイートも含め時系列にて最初に配して、読者の理解を助けてから、本題に入ります。
[巽先生]
安部公房ファンの雑誌<もぐら通信> 34号(第二版)では岩田英哉の「『箱男』論ーー奉天の窓から 8枚の写真を読み解く」が出色。作家少年時代の奉天体験から「モルグ街」を見直す視点がユニーク。個人的には両者は都市文学なのだと思う。「群衆の人」から『箱男』への距離は決して遠くあるまい。
[もぐら通信発行人]
巽先生、tweet、ありがとうございます。『群衆の人』の最後の一行「自らを読み取られることを拒む書物が存在することは神の恵みの一つなのだ」と結ぶ、これは全く『箱男』というテキストでありますねえ。Crowd = Boxならむや?/岩田
[巽先生]
@takranke ベンヤミンが「群衆の人」を「探偵小説のレントゲン写真」と呼んでいるのも面白い。「モルグ街」の一年前に書かれた作品に対してはややアナクロニスティックな解釈ですが、安部研究にとっては「都市遊歩者」の概念ともども啓発的でしょう。
[もぐら通信発行人]
然り、然り。そういえば、ポーの創始したデュパンも、パリの街中を歩きながら、あれこれを推理し、謎を解いて、核心をあらわにして、同行の物語の話者を驚かせましたね。
また、そういえば、その後継たるシャーロック・ホームズもまた、そうやってロンドンの街中でワトソン博士を驚かせました。
近代のそれぞれの国家の首都たる都市の中を目的なく逍遥しながら(逍遥とはそのような歩行故、目的なくは贅語ですが)、そこにある様々なる謎を解くというのが、この探偵小説の主人公の持つ、確かに、濃厚なる性格です。
Definition of FLANEUR
: an idle man-about-town
また、
Origin of FLANEUR
French flâneur
First Known Use: 1854
とありますので、これはやはり、19世紀の半ばにはヨーロッパ大陸の人口に膾炙する言葉となっていたのでありましょう。
しかし、また、コナン・ドイルも同類の探偵をロンドンの街中に登場させた以上、まあ、グレート・ブリテンも含めて、大陸も島国も、そのような時代を広義のヨーロッパは共有していたということなのでありましょう。
と、翻って、我が国はほとんど数年をおかずして、これらヨーロッパ諸国と同時期に近代国家の憲法を発布したところをみても(明治の先達は偉かった)、公武合体政策により京都から東京に都を移し、しかも江戸という武士の地の名前を近代国家を担う東京という名前に変えて、やはり同様の首都を建築したという歴史的な事実を思い出すことにします。
そうすると、どうなるか。
探偵小説の生まれる同じ土壌を、わが日本もまた得たということになるでしょう。
安部公房を、この線上で眺めてみますと、本人のもともとの閉鎖空間からの脱出という18歳の『問題下降に拠る肯定の批判』はその通りとしても、やはりこの作家の主人公たちには、濃厚に、それが閉鎖空間からの脱出を意図する主人公たちであり、かつ此の作家が奉天での中学生時代以来晩年に至るまでのポーの愛好家ということになれば(ちなみに二人目の大好きな作家はルイス・キャロルとその『不思議の国のアリス』という作品)、探偵小説の趣と、従い、上で見たようなデュパンやホームズ並みの都会の遊歩者の性格を濃厚に備えることを思うことは、おかしなことではないと考えることができます。
そうして、そう考えてみてみると、確かに『終りし道の標べに』の主人公の夢見たのは、渺々たる荒野に無から町を建設することであったし、1960年代になってから前期20年に書いた3本の名作のうちの、『燃えつきた地図』は主人公が探偵で、そのまま都会という迷路をさ迷い、目の前の謎を解くことに汲々とする主人公でしたし、その前の『他人の顔』もまた、そう言えないことは、勿論、ない。
となれば、『砂の女』でさへ、陰画の都会小説であるということができるし、実際安部公房全集の関根弘とのある対談で、安部公房は『砂の女』は陰画としての国家を描いたと言っています。
さらに、1970年という年を跨いで『箱男』を考えてみれば、この箱男こそ、更に『燃えつきた地図』の探偵の進化変形したる都会の乞食以下の人間であった、そうしてそのまま都市の中の、その都市から脱出を図る遊歩者、flaneur、即ちan idle man-about-townであるということができましょう。
何しろ語源に遡って考えれば、近代国家の首都を英語でcapitalとは、これ如何に。数学での行列の列(column)冠(かんむり)という意味であれば、当然のことながら、遊歩者たる探偵小説の主人公は、その列の垂直構造の都会の住所と街区の中から外へと脱出を図ること、これは、人間の思考論理の必定なのです。
つまり、遊歩者は、都会の群衆の外にいる存在(存在とあえて言いましょう我々安部公房の読者なればこそ)なのです。こうして考えてみますと、安部公房が何故『群衆と権力』をものしたエリアス・カネッティを晩年発見して称揚したかが、よく解ります。
ポーとの比較をいえば、そうして巽先生の冒頭の引用を踏まえて考えて、このように考えてくれば、「ベンヤミンが「群衆の人」を「探偵小説のレントゲン写真」と呼んでいるの」は、全くその通りで、『群衆の人』と『箱男』の関係を考えれば、前者は後者のレントゲン写真ということは、安部公房が東京の中での撮影した写真の数々をみれば、明らかです。
ということは、いや論理は逆転して、後者の探偵小説『モルグ街の殺人』と『箱男』こそ、前者『群衆の人』のレントゲン写真ということになりましょう。何故ならば、安部公房の写真はみな、陰画としての都市にある物・事・人の差異のみを撮影することによって、その骨格(構造)を露わにするレントゲン写真であるからです。箱根の仕事場にあったイギリス製の紙製の人骨模型を思いだされたい。
何故ならば、安部公房は東京という都市の中の群衆にある差異ばかりを撮影したからであり、そこから生まれる画像はみな、陰画の群衆、即ち差異に棲む個人であるからです。いや、個人すらいないというべきでありましょう。
その個人ですらない、乞食以下の乞食、言葉をもっと正確に使えば、乞食未満の人間が、箱男という主人公でありました。Less than One.
探偵小説が何故生まれたかというわたしの仮説は、少なくとも日本の国に於いては、明治になってから仇討ちが禁じられたのであるからというのが、その仮説の重要な柱の一つなのです。
裁判所の判決では恨みを晴らすことができないということが一つ。この事情は、今でも最高裁判所の判決に対する被害者遺族の不満不服を折に触れて目にすると、変わらない。品川泉岳寺の四十七士の墓に線香の煙の絶えない理由です。今も、私たちのこころには、元禄時代が生きている。
もうひとつは、上の都会の群衆との関係では、近代国家は複製を多量に生産する国家の中にある首都(capital)でありますから、人は自然に固有の人生を求めるようになり、従い固有の死を願うようになるのではないでしょうか。そのように、わたしは思います。
こうしてみますと、ベンヤミンには、近代工業による複製製品に関する複製論のあることが思い出されます。つまり、人間の生きることの一回性、uniqueなる人生が失われた、そのアウラが失われたという論です。
となれば、近代国家の都市(首都)という開かれた(と普通には思われている)場所の中にすまう群衆の中にいる特異な其の人間個人に対するに、密室の中で殺される被害者こそ、論理逆転した其の対極の、アウラを持った筈の個人でありましょう。
そうして、そのアウラを持った個人の殺人を犯す個人(犯人)こそ、クリスティの『オリエント急行の殺人』という変格ものはありこそすれ、やはり高等なる知能を有する単独犯による密室殺人事件こそ、遊歩者たる探偵の能力を最大限に発揮する世界なのではないでしょうか。
この度もぐら通信第34号にて『箱男』を論じて、この安部公房の小説が、4次元の小説であって、読者もまた箱男による箱男の殺人に加担する箱男になる、そのような小説であれば、やはり都会の中の差異、即ちビルとビルの隙間に棲む箱男こそ、陰画としての群衆の中の箱男であり、もしそのまま此の考えを敷衍させて考えるならば、箱男の集合こそ都会の群衆でありましょう。即ち、
群衆=箱、crowd = box、更に
crowd = box = closed space
ということになりますが、これ如何に。
まさしく、奉天の中学生の安部公房少年も思いもかけぬ結論とはなったようであります。
安部公房の論理によれば、我々は果てしなく都会の中から逸脱する。
追伸:
巽先生は、もとより東京という都市に生まれ育つたCity Boyであります。私は、北海道の原生林の中でヒグマと相撲をとって大きくなったような、文化とは無縁の人間、即ちcountry boyであります。
しかし、このような人間同士で、このように意思疎通が叶うとは、よっぽど近代国家と其の国民にとっては、密室殺人事件の謎を明快に解決する名探偵という都会遊歩者、flaneurは、前者即ち国家にとっては其れは犯罪者に近く、他方後者即ち国民にとっては小説の読者たるひとりひとりに近い物語であり人間であるのでありましょう。
確かに、時空を超えた探偵と殺人者と被害者の話が、『箱男』でありました。4次元小説。
かうして考えて参りますと、確かに、『群衆の人』の最後の一行「自らを読み取られることを拒む書物が存在することは神の恵みの一つなのだ」と結ぶ、これは全く『箱男』というテキストそのものであると思います。