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2015年7月13日月曜日

三島由紀夫と成城高等学校:蓮田善明と安部公房

三島由紀夫と成城高等学校

三島由紀夫の文学の世界の方達と交流の始まるにつれ、三島由紀夫と安部公房の出逢いの機縁は、中田耕治さんと安部公房が世紀の会を設立するより以前に、既に成城高校にあることが判りました。

これは、勿論、三島由紀夫の世界の読者も知らないことで、やはりわたしが安部公房の読者であることから知られることなのです。

十代の三島由紀夫の天才を見抜いた二人の文学の先達、即ち清水文雄と蓮田善明のうち、後者は、昭和13年、西暦1938年に、成城高等学校の教授として此の高校に着任しております。

このとき、三島由紀夫は13歳、安部公房は奉天にいて14歳。

この着任の年に、

「同年、清水文雄らと雑誌「文藝文化」を創刊。同人には他に池田勉、栗山理一らがいた。のちに同人に加わる三島由紀夫の『花ざかりの森』が掲載された昭和16年9月号の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」[1]と記し、三島を激賞した。」[https://ja.wikipedia.org/wiki/蓮田善明]

とWikipeidaにあります。以後すべての引用は、Wikipediaの引用です。

「1939年(昭和14年)、中支戦線洞庭湖東部の山地に従軍」とあり、また「1939年(昭和14年)、中支戦線洞庭湖東部の山地に従軍、歩兵少尉軍務の余暇に各論考、日記を書き綴り、『鴎外の方法』を出版。1943年(昭和18年)、陸軍中尉として再召集。1944年(昭和19年)よりインドネシアを転戦。1945年(昭和20年)8月19日、ジョホールバルにて所属する部隊の歩兵第123連隊長・中条豊馬大佐を射殺。その後、ピストル自決。享年41。」

とありますので、1939年のある月までは、そうして1943年の再度の応集までの期間は、成城高校の教授職にあったと考えられます。

三島由紀夫の『花ざかりの森』を書いたのが16歳、昭和16年ですから、この年は西暦1941年。

安部公房は、16歳のときに成城高校に入学します。

この期間に、安部公房は、成城高校の廊下で蓮田善明と行き合って、生徒としての礼をとり、礼儀正しい挨拶をしたのではないでしょうか。もし再度の応集までの期間に、蓮田善明が成城高校の教職にあったとすれば、これは間違いのないことと考えてよいでありましょう。ここは実際にどうであったのか。蓮田善明が成城高校で教鞭をとった期間を知りたいものです。

さて、三島由紀夫に多大な影響を及ぼした此の優れた国文学の教師は、大日本帝国の敗戦直後、1945年8月19日に、

「敗戦を中隊長(陸軍中尉)として迎えての4日後、応召先のマレー半島ジョホールバルの連隊本部玄関前で上官である連隊長・中条豊馬陸軍大佐を射殺。その数分後に同じピストルをこめかみに当てて自決を遂げた。その時、左手に握り締めていたものは、「日本のため奸賊を斬り皇国日本の捨石となる」という文意の遺歌を書いた一枚の葉書だったといわれる。

鳥越春時副官の記憶によると、中条豊馬大佐は、「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という。」

とある理由による自殺を遂げます。

さて、更に話は続きます。

「翌1946年(昭和21年)11月17日に、成城学園の素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」が行なわれた。出席者は、桜井忠温、中河與一、清水文雄、阿部六郎、今田哲夫、栗山理一、池田勉、三島由紀夫。出席者だけで蓮田の思い出を小冊子にまとめ、蓮田を深く知る版画家・棟方志功装幀で『おもかげ』という題名で発刊した。」

この蓮田善明の追悼の会に出席した上の出席者の名前に、阿部六郎という名前を発見して、安部公房の読者は驚くことでありましょう。

何故ならば、阿部六郎こそは、成城高校時代の安部公房の恩師であり、安部公房にドイツ文学を授け、ニーチェを教え、安部公房が大変感化を受けた人間であるからです。(安部公房全集に残る阿部六郎宛の書簡によって、安部公房の阿部六郎に対する疑うことのない信頼を知ることができます。)

そうして、阿部六郎の名前と共に、21歳の三島由紀夫が同席をしているという、この事実。

安部公房と三島由紀夫が実際に初めて会うのは、この二年後の1948年か、遅くても三年後の1949年です。中田耕治とふたりで立ち上げた世紀の会の最初の読者会の課題図書が、当時出版された、『夜の仕度』を入れた三島由紀夫の短編集でありました。この作品は1947年の発表。他の短編と併せて刊行された年の確定をしなければなりません。

成城学園の素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、阿部六郎は、間違いなく三島由紀夫と言葉を交わしたことでありましょう。

安部公房が『粘土塀』(改題『終りし道の標べに』)を阿部六郎に持ち込んだのは、1948年。安部公房24歳。

世紀の会で二人が出会ったのは、三島由紀夫が『終りし道の標べに』を賞賛した文章を発表した後であったのか前であったのか。これも調らべるに値する興味深いことです。いづれにせよ、その後、近代文学の集まりでも、安部公房と三島由紀夫は会っていたことは間違いないでありましょう。

三島由紀夫ー蓮田善明ー阿部六郎ー安部公房という、このような関係のあること、そうして実際に三島由紀夫と阿部六郎が蓮田善明の追悼会であっていること、従い成城高校の同じ教授職としても、阿部六郎と蓮田善明は親しくお互いを理解し合っていたに違いないこと、これらの事実は、三島由紀夫と安部公房という二人の相補的な、補完関係にある藝術家同士の、その前段の歴史であり、この目に見えない糸の結ばれた歴史の土台の上に、二人の戦後の活躍があったということが、わたしには誠に尊いことだと思われるのです。それぞれの本来の文化的な意志に反して、政治的に両極端に誤解をされ続けた二人であれば尚更のこと。

阿部六郎の翻訳したシェストフの『悲劇の哲学』(河上徹太郎共訳)や、中田耕治が感銘を受け後年『ゴーゴリ論』を書く契機となったという、ゴーゴリの「ディカニカ近郊夜話」に出てくる「ヴィー」、「ウェージマ」という地霊や魔女について書いた阿部六郎の『地霊の顔』がどのような作品なのか、安部公房の読者としては、これらの作品とその文学的活動について、丁度三島由紀夫の世界の蓮田善明に当たる方ですから、もっと安部公房の側の世界で調べられ、研究されてよいのではないかと、わたしは思います。

今まで、このような研究が、本当になおざりにされていたと、わたしは思います。



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