マルテの手記9:病院
安部公房は、その小説の中の舞台として、病院を設定する小説を幾つか書いております。
今、想い出すままに、挙げますと、
1。密会
2。カンガルー•ノート
ほかにも、まだあるのではないでしょうか。
もし病院ばかりではなく、医者の登場人物を挙げるということになれば、これらふたつの作品のみならず、芥川賞を受賞した「壁」に出て来るユルバン教授も、挙げることができるでしょう。
去年発見された未発表作品「天使」も舞台が精神病院と喧伝されておりますが、しかし、作品には病院という言葉は全く出て来ません。やはり、これは主人公が認識している正六面体の内部と外部の話なのです。
さて、マルテの手記にも、医者と病院が出て来ます。以下、望月訳で引用します。前回のハープと笛の、直ぐ次の行です。
「 医者は僕の話が少しもわからなかった。すこしも。わかるように話すことは困難であった。医者は電気療法を試みようと言った。よかろう。僕はカードをもらった。午後一時にサルペトリエール病院へ来るようにと申しわたされた。僕はそこへ行った。(略)」
上の引用の「カード」と訳してある原文も、切符というモチーフのところで書いた言葉、即ちdie Karte、カルテですので、ここにも、切符、乗車券、乗船券というモチーフは関連して、響いているのです。
このあと、病院の中へ入り、待合室に並ぶ人間達の素描が続き、医者とその弟子たちとマルテの会話が続きます。
そうして、マルテは、一般外来での受付をされたことから、自分は何も特別な人間ではなく、改めて、この病院にいる患者達、即ち「敗残者」に属する人間だという自覚を持つのです。「敗残者」と訳されたドイツ語は、die Fortgewrofenene、直訳すれた、絶えず(何者かによって)投げ捨てられている者達という意味です。
この敗残者、絶えず投げ捨てられている者は、実は乞食とは違います。少し順序が前後して、前の方に戻りますが、次のような箇所があります。私の訳で引用します。
「しかし、わたしは、自分の髭の手入れを放ったらかしにしていいという権利は持っているわけではない。多くの忙しい人々(ビジネスマン、商人たち)は、そうする権利があるが、しかし、だからといって、その人間達を敗残者の中に数え入れるというようなことは、誰も思いつかないだろう。というのも、それは(病院の患者達は)、敗残者たちなのであって、乞食ではないということが、わたしには明らかだからだで、ひとは(このふたつを)区別しなければならないのだ。」
『箱男』の中に、箱男は乞食とは違っている。乞食はまだ社会の底辺に属する人間であるが、箱男は、それ以外であり、社会の外にいる存在だということを主人公が考える場面がありました。
さて、そして、マルテの幼年期の回想で、熱が出て家で寝込み、自分の恐怖の対象であった「大きなもの」を想い出す。当時も医者は、「大きなもの」を理解できず、治療もできなかった。今また、そうであるのです。
この「大きなもの」に対する不安は、『箱男』の中にも出て来ました。それは、『箱男』の中に挿入されている写真のうち、自動車交通用の凸面の鏡に映った歪んだ家についている短い説明書きです。それは、次のような言葉です。
「小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。
雨のしずく……濡れてちぢんだ革の手袋……
大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる。
国会議事堂とか、世界地図だとか。」
さて、この辺りから始まるマルテの言葉のキーワードは、不安です。この不安の正体が何なのか、これからの何処かの箇所で、明らかになることでしょう。
[追記]
この記事を読んだMian Xiaolinさんからコメントがあり、その他病院の出て来る小説に、『R62号の発明』でロボットが作られた場所(脳外科手術をしてR62号を作る場所)、『飢餓同盟』に出てくる診療所、『箱男』に出てくる病院と医者と看護婦が出て来るという指摘がありましたので、ここの補足として追記するものです。なるほど、その通りでした。
(この稿続く)
[岩田英哉]