マルテの手記1
年末年始を北海道に戻って過ごし、のんびりとしながらも、我がMacbook Airを持参して、もぐら通信の連載「安部公房の変形能力3:ニーチェ」の原稿を、ほぼ書き上げました。
そうして、次はリルケということで、今日からマルテの手記を読み始めました。
マルテの手記は、インゼル出版というドイツの出版社のペーパーバックスを20代のころから持っていて、いつも手元にあったのですが、いわゆる積ん読くでありました。
今安部公房との関係で読む事になろうとは、思ってもおりませんでした。しかも、電子書籍リーダー、Kindle Fire HDで読んでいるのです。
「安部公房の変形能力4:リルケ」は、間違いなく一回では終わらずに、連載ということになるでしょう。それほど、安部公房とリルケについては、書く事が多くあります。
あと2ヶ月ほどありますので、その間、折に触れ、読んで知ったことを、安部公房の広場に書いて、あなたと知識を共有したいと思います。
そうして、共有しながら、どうやったら安部公房とリルケの関係を一番よく伝えることができるのかを考えて参りたいと思います。
マルテの手記を、読んでみるとわかりますが、開巻即、最初の3行の文に、既にこの作品の主題が書かれているのではないかと思いました。
最初の3行を、今わたしの言葉でドイツ語から訳すと、次のようになります。
「という次第で、だから、人々は生きるために、ここへとやって来るのだが、わたしがむしろ思うには、ここでは死ぬのだ。わたしは、終わってしまった人間である。わたしは(次の物事を)見たのだ:」
と言って、コロンの次に、マルテが見た光景の叙述が続きます。
この3行の文から以下にこのリルケの描くマルテの思考の特徴を挙げます。
1。「という次第で、」と訳したように、この書き出しの前の段から意識は続いている。即ち、始まりのない始まりとなっていること。そうであれば、最後に至って、終わりのない終わりということになるのであろうか。
2。「わたしは終わってしまった人間である。」と訳したこの一行は非常に多義的で奥が深い一行なのです。この一行からの解釈は、次の様なことがあるでしょう。
(1)わたしには、もう未来という時間はないのだ。
(2)わたしは、局外者、アウトサイダーだ。
(3)わたしは、生きるためにいる人々を外側からみる人間なのだ。
(4)ということから、わたしのいる場所は死者の場所だ。
(5)「ここでは死ぬのだ。」と訳したところは、主語が非人称の主語で、敢えてその主語を具体的に言えば、死ぬのは人間、もの、こと、この3つだということになるでしょう。
(6)終わってしまった人間と訳したausseinという動詞の過去分詞形の意味のひとつに、aufと名詞の4格をとって、何かを求めて、探索中であるという意味もあること。確かに、マルテは、地図を持って、この街を冒頭から探索している。
(7)独白体であること。
(8)手記名前で呼ばれ得る形式であること。
(8)手記名前で呼ばれ得る形式であること。
このように列挙してみて、この8つのそれぞれの項目に、安部公房に通じるものがあります。
(この稿続く)
[岩田英哉]
0 件のコメント:
コメントを投稿