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2013年1月24日木曜日

マルテの手記5:擬似家族


マルテの手記5:擬似家族

マルテは子供時代に、家族と不思議な生活を送ります。マルテが12歳か13歳のころの話です。

しかし、それは実際家族ではなく、擬似的な家族ともいうべき家族です。旅する擬似家族です。

そうして、この作品の題名に手記とあるように、そうしてドイツ語の本来の意味ではスケッチ、素描というのがその手記と訳された言葉のドイツ語の本来の意味なのですが、その意味にふさわしく、いつからそのような奇妙な生活が始まったのかが書かれていません。

この連載の第1回目に言及しましたが、この作品の冒頭が、意識の流れの途中から始まるわけですが、それと同様に、またスケッチという体裁から言っても、ここでも、エピソードの始まりは読者に提示されることはなく、言わば宙に浮いた素描として読まれることになります。

10代の安部公房は、この始めも終わりもない、何か無限の時間の中に浮遊しているような素描に、その奇妙な話の数々に、そうして、手記と訳されているように、誰かに向かって報告されるその文体と形式に、憧れ、惹かれたのです。

(そうして、その中で生全体の構造を見抜こうとするマルテの思考と姿勢に。構造を見抜くとは、時間を捨象するということと同じことです。)

これは、相当なまでに、後年の安部公房の小説の特色を言い当てています。

さて、奇妙な大人達との生活の話です。マルテは父親に連れられて、祖父のお城へ行きます。その理由も語られることはありません。望月市恵訳で以下で。

「祖父は食卓の人々を家族と呼び、みんなも自分たちをそう呼んでいたが、この呼び方は全く根拠がなかった。食卓を囲む四人は遠い縁戚通しではあったが、家族といえる間柄では全然なかった。」

家族と呼ばれているが、家族という実体のないひとの集まり。そうして、実際に城の構造としても、ひとりひとりの部屋が分離していることが、語られています。


この城の中で、マルテは、5人の人間達と一緒に、生活をします。その名前を挙げると、

1。祖父
2。伯父、ブラーへ伯
3。マティルデ•ブラーヘ嬢
4。ある親戚の女の小さな息子、エーリック
5。少佐

それから、この城には、クリスティーネ•ブラーへという女性も一緒に住んでいますが、その叙述を読むと、この女性は幽霊か亡霊のように見える。気も狂っている様に思われる。大広間での晩餐の席に、とあるドアから入って来ては、沈黙のままに通り過ぎ、また別のドアに消えて行くのである。

3度目に、このクリスティーネ•ブラーへという女性が姿を晩餐の席に現したときに、マルテとマルテの父親は、旅に出るのです。これも、故郷に戻ったのかどうかはわからない、旅に出た、出発したとだけ短く記されています。

安部公房の描く家族は、擬似家族といってよいものです。小説の「闖入者」や、これを劇に仕立て直した「友達」は勿論のこと、その他の小説にでも、同様の家族の取扱いが行われています。

それは、何故でしょうか?

物事を本質的に考えるために、そして特に世間や社会が大切だと思っていること、信じ込んでいることの、その物事を否定する姿を仮定し、仮説してみるという思考と態度を徹底的に貫けば、そのようなことになるのだと、わたしは思います。(エドガー•アラン•ポーの座標軸として、もぐら通信第4号で「安部公房の変形能力2:エドガー•アラン•ポー」で論じた通りです。)

安部公房の精神は徹底しており、そのことにおいて、苛烈です。この苛烈さは、他のふたつの座標軸、即ちニーチェとリルケから学んだことです。

この苛烈さが、人間と社会の弱点を露にする寸鉄ひとを刺す言葉となるのは、ニーチェから、同じことが、美しい言葉となるのは、リルケから、それぞれ学んだのです。


(この稿続く)


[岩田英哉]

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