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2013年1月22日火曜日

マルテの手記3:存在象徴


マルテの手記3:存在象徴

10代の安部公房が概念化をし、10代の書簡の中に何度か言及され、そうして「終りし道の標べに」の中で盛んに使っている哲学用語に、存在象徴という言葉があります。


「終りし道の標べに」を読みますと、それがどのような概念の言葉であるかは、明白なのですが、同じ概念を、リルケの「マルテの手記」の中に発見したので、後日の備忘として、ここに残すものとします。以下、「マルテの手記」から、望月市恵さんの訳から、転載します。

安部公房が10代で読んだ「マルテの手記」が、こんなに深い影響を安部公房に与えていたとは。全く無駄のないリルケの言葉です。

これを、10代の安部公房は真っ正直に、そのまま受容して、実践したのです。以下の引用の後半が、存在象徴という用語の概念なのです。そうして、これがそのまま、安部公房の創作方法なのです。


「(略)詩も書いた。ああ、若くて詩をつくっても、立派な詩はつくれない。詩をつくることを何年も待ち、長い年月、もしかしたら翁になるまで、深みと香とをたくわえて、最後にようなく十行の立派な詩を書くというようにすべきであろう。詩は一般に信じられているように、感情ではないからである。(感情はどうんなに若くても持つことができよう。)しかし、詩は感情ではなくて―経験である。(略)

 しかし、思い出を持つだけでは十分ではない。思い出が多くなったら、それを忘れることができなければならない。再び思いでがよみがえるまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出が僕たちの中で血となり、眼差しとなり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなかに燦然と現れ浮かび上がるのである。」


上に引用したふたつの部分の間に、略したところに、マルテの数々の経験が具体的に書かれています。

ここに書かれていることは、10代の安部公房の、そして20代以降に花の咲いた小説家としての安部公房の創作の方法論(理論)であり、同時に創作の態度(実践)そのものです。

以下に、この創作の行為をプロセス(工程)として分解すると、次のようになります。

1。多くの経験をする。
2。それらの経験を一度忘却する。
3。忘却された経験が再び自分自身のところに戻って来るのを待つ。
4。3の期間は、経験した思い出が、自分自身の「血となり、眼差しとなり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくな」るための時間である。この時間が必要なのだ。
5。そして、最後に、「恵まれた瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなかに燦然と現れ浮かび上がる」。

10代の安部公房は、このプロセスと、それから生まれる思い出の形象を、象徴として捉えて、存在の象徴と呼び、その統一を存在象徴の統一と言ったのです。



[註]
望月市恵さんの訳では、上の引用の後段の「再び思いでがよみがえるまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。」とある「再び思いでがよみがえる」というところは、ドイツ語の原文では動詞がwiederkommenという動詞なのです。望月市恵さんは、その一行のこころを訳したのです。

しかし、この動詞の本義、直義を云えば、再び戻って来るという意味なのです。従い、ここは、複数の思い出が再び戻って来る、帰ってくるという意味なのです。

即ち、一度忘却した過去の経験が、時間の経過の後に、その人間の内側に立ち現れて、同じ姿なのか別の変容した姿であるのか、いづれにせよ、そのような記憶と経験の現れを、安部公房は象徴と呼んだのです。そうして、それは無意識の世界からやって来るものであるが故に、存在の象徴と呼び、その統一を創作の目的としたのです。

この創造の行為を、数学的な徹底した思考の末に、10代では、次元変換と呼び(「詩と詩人(意識と無意識)」また転身若しくは身がへ(「無名詩集」)と呼んだのです。

そうして、ニーチェとの関係では、概念から生への没落と呼んだのです。


(この稿続く)


[岩田英哉]

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