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2013年1月23日水曜日

マルテの手記4:第三者(媒介者)の排除



マルテの手記4:第三者(媒介者)の排除


前回の存在象徴と安部公房が呼んだ創作の方法と態度の記述の後で、マルテは、第三者について述べています。

マルテが今まで書いた自分の詩も詩とは呼び難く、詩ではないといい、劇も書いたがこれも駄目なもので、その理由が、ふたりの登場人物を創作するとして、そのふたりの意思疎通のために第三者を必要として、そのような人間を登場させたことが愚かなことであり、失敗の原因だっと言っています。以下、望月市恵さんの訳で引用します。


「(略)僕は劇を書くにあたってなという誤りをおかしたことだろう。苦悩を与え合う二人の運命を語るために、もう一人の人間を登場させなければならなかった僕は、愚かな模倣者にすぎなかったのだろうか。僕はなんとたあいなく陥穽に落ちたのだろう。僕は、あらゆる生活と文学とに登場するこの第三者、現実には決して存在しなかった亡霊のような第三者は、なんの意味も持たない人間であって、それを黙殺しなくてはならないことを知らなくてはならなかった。この三人目の人間は、僕たちの注意を人生の最も深い秘密からそらそうとしてやまない自然の術策の一つである。進行中の真の「ドラマ」をおおいかくす屏風である。(略)(この第三者が)たとえば悪魔にさらわれてしまったとしたら?そういう場合も仮定してみようではないか。そしたら、だれも作りごとでかためられた劇場のむなしさに不意に気づき、劇場は危険な穴のようにふさがれ、仕切桟敷のクッションから衣蛾が飛び立ち、がらんとしたむなしい場内を力なく舞うのみになるだろう。劇作家は郊外の高級住宅に住んではいられなくなるだろう。すべての公けの諜報機関が動員され、劇作家のために遠く世界のすみずみまで、劇の動きそのものを意味した掛けがえのない三人目の人物が捜索されるだろう。

 しかも二人は僕たちの近くに生きているのである、(三人目の人物ではなくて)問題の二人は。この二人は僕たちの近くで苦しみ、生き、絶望していて、かれらについては話さなくてはならないことが驚くほど多くあるが、きょうまでにはほとんどなにも語られていない。」


わたしたちは、第三者がいなければ意思疎通ができません。この第三者がいて、社会的な生活がなりたっております。これを媒介者とか、媒体といっても同じです。

マルテの言う「あらゆる生活と文学とに登場するこの第三者、現実には決して存在しなかった亡霊のような第三者」という形容は、正鵠をしております。

わたちたちは、その亡霊のような実体のない機能と役割を日々演じて、第三者として生活をもしているのです。このことを、あなたにも想い出してもらいたい。

しかし、他面、これは社会の役に立つ人間であるということの真の意味でもあるのです。即ち、あなたが媒介者、媒体になるということが。

マルテがここで言っていることは、言語と人間にとって本質的な事を言っています。

いつも他者と意思疎通をし得るのは、相手と、共通の何か(第三者、媒体)を共有しているからです。それゆえに、誰それさんを知っているというだけで、わたしたちはお互いに理解し合ったように勘違いをする。何故か親しくなるのです。

さて、人間としての第三者ばかりではなく、わたしたちが何かを知ったり、理解したりするときには、例外無く第三者、媒介者、媒体を持つ事無く、知り、理解することがありません。

人間は物事の本質を直に、直接知る事はできないということです。

文法的に言えば、わたしたの言語は、必ず述語部を持っているということが、これに相当します。あなたは、第三者、媒介、媒体をっ述語部におくことなく、一行の文も生成することができない。相手に自分の意志を伝えることができない。

このように考える人間、第三者を排除しようとする人間は、当然のことながら、役立たずの人間ということになるでしょう。

また、このような人間は、物事の本質を、第三者や媒体を通じて間接的にではなく、直接的に、直に知りたい、直かに対象に触れたいと願っている人間なのです。

そのような人間の一人である、28歳の若者マルテは、当然のことながら、自分自身を、上の引用に続いて直ちに、次のように点描する以外にはありません。これは、このままリルケの自画像であり、同時に安部公房の自画像でもあります。無名の人間。無名無能の人間像です。


「おかしなことである。僕はこの小さな部屋にすわって、今年二十八歳になるが、だれもこのブリッゲ青年の存在を知らないのだ。僕はこうして生きているが、存在しないも同然である。しかし、この虫けらのような人間は、パリの灰色の午後、安アパートの五階の部屋で考えることを始めて、こんなように考える―」

そして、実に鋭い嗅覚を以て、リルケは、そのような無役、無能、無名の人間が、社会との関係では、社会の中に住む人々の意識の底、無意識の世界では、危険な人間であると感じられていることを、次のように、第三者の不在の場合として記述するのです。

これは、リルケの心理を裏返しに、第三者に仮託して語ったものであり、これはまた同時にそのまま、安部公房の主人公達の意識と心理の逆説的な説明になっていることにご注意下さい。即ち、そのような無役、無能、無名の人間が、社会の諜報機関から捜索され、スパイされるという現実的な可能性を、リルケはここで書いているのです。

「すべての公けの諜報機関が動員され、劇作家のために遠く世界のすみずみまで、劇の動きそのものを意味した掛けがえのない三人目の人物が捜索されるだろう。」


[註]

箱男脱稿後の講演をYouTubeで聴く事ができますので、お聴き下さい。この中の最後の方で、安部公房は、自分はあなたと直接関係を結びたいのだ、第三者を排除して、あなたと直接理解をし合いたいのだと強く、言葉を大きくして、言うところとがあります。他のひとの芝居は見てくれるな、僕の芝居だけを見てもらいたいのだ、と。

箱男は、1973年の刊行。安部公房、49歳のときです。リルケのマルテの手記が如何に、安部公房に深く根を降ろしているか、お解りになる筈です。


[註2]
この主題が、そのまま、何故安部公房の一連の小説が、いつも手記の体裁をとるのか、報告体の体裁をとるのかの、主要な理由のひとつになっています。

(この稿続く)


[岩田英哉]

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