安部公房の命日(没後20年)に寄せて
頭木さんが、ブログに安部公房の今日のこの命日に記事を書いていらしたので(http://ameblo.jp/kafka-kashiragi/entry-11454380708.html)、わたしも倣って、個人的な、安部公房との思い出を、三題噺のようにして書いてみようと思いました。
1。安部公房と言葉を交わしたこと
わたしは当時学生で、三田文学の編集部に出入りをしておりました。
この編集部は、当時新宿紀伊国屋の4階にありました。わたしは大学の一年生でした。
1973年に、その編集部の前で、ドアの錠がかかっていて閉まっており、中に入ることができなかったので、ひとを待ちながら、所在なげに、ドアの前で立っていると、右手の方から小柄な男性が、右手に鞄を下げて、確か左手はズボンのポケットに入れて、通りかかり、立ち止まって、編集部のドアのガラス窓にはってある三色旗の上の三田文学という文字を眺めて、ああ、ここが三田文学ですかといったので、わたしもこれは編集部へのお客さんかと勘違いをし、ええ、今閉まっているのですが、もう少しするとひとが来ると思いますということを言うと、一寸立ち止まって眺めたあと、向きを変えて歩き始め、左手にあった階段を降りて行きました。
そのときは、気がつきませんでしたが、後になって想い出しました。それが安部公房でした。
振り返ってみれば、1973年当時は、安部スタジオを立ち上げ、初期の公演を紀伊国屋劇場でおこなっていたのではないかと思います。
楽屋からやって来た安部公房に出合うとは。
このことは、わたくしのいい思い出となっております。
2。井の花
安部公房は自動車が好きで、千川の自宅から多摩の地域をあちこちと車を走らせて、ドライブをしていたことは、あるエッセイで書いています。(全集第19巻、236ページにある「多摩丘陵のドライブ」の237ページ下段左端の3行をご覧下さい。)
その書き方から言って、よく通った交差点なのでしょう。
わたしは、時期はずっと後ですが、5年程、その交差点のところに住んでいたことがあります。
最寄り駅は、小田急線の鶴川駅でした。駅前の、渋谷から延びて来ている世田谷道を真っ直ぐに走ると1キロほどのところにある四叉路が、井の花と呼ばれる交差点なのです。
ここの道は、源頼朝が進軍して馬を進め、井の花の先を一寸行って右折をし、鎌倉街道に入って北上する、その手前にあるのでした。
3。日大永山病院
安部公房は、20年前の今日、日大永山病院で亡くなりました。
この病院は、わたしもよく通って、お世話になった病院でした。
小田急線の永山駅の直ぐ傍にあります。
翌日新聞で安部公房の死を知り、そしてわたしも知っている病院でしたので、亡くなったとはいえ、何か、安部公房が傍にいるという感じを持ったことを昨日のように想い出します。
[岩田英哉]
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