「終わりし道の標べに」(安部公房)を読む:第1のノート
安部公房の愛好した小説の形式が手記である。この処女作がその嚆矢であって、その後の作品の中に同じ手記という形式をとった作品が幾つもある。
何故安部公房は、手記という形式、ノートに書くという仮構を必要としたのだろうか。これは、リルケの「マルテの手記」を当然安部公房は読んでいたので、その影響だろうか。しかし、影響とは一体何だろうか。
言えることは、このような事である。
安部公房>書き手(語り手)>手記の世界>手記の世界の登場人物達>登場人物達の語る世界>.........
という階層構造が、安部公房には必要であったということであり、またこの階層構造を上下に昇ったり降りたり、 場合によっては、書き手のもう一つ隣りの複数の世界に触れ、入っていって、またこの手記の世界に戻って来るというように、作者の意識が垂直方向にも水平方向にも自在に往来できて、そうしてその世界が論理的にあることを作者に保障し、また保証してくれるからなのだと思う。
この手記ということから、わたしは10代の安部公房の孤独を思ってみる。確かにリルケに影響を受けたかも知れないが、利発な少年として、自分自身と対話を重ね、文字をノートに書き、言葉を十分意識して思索を重ね、思弁を重ねて考え抜く、実際に手記を書き、ノートを書いた少年の安部公房である。
ノートに書く、手記を書くということは、絵画ならば、自画像を描く事に等しい。(それは一体、誰の手記、誰の自画像なのであろうか。)
さて、この「終わりし道の標べに」という作品は、一体どのような自画像だというのであろうか。
はっきりしていることは、これは、そのエピグラムをみて明らかなように、安部公房の亡くなった友人(親友といってよい友人)に対する墓標であるということである。
この友人と生きた時間と空間の記憶を葬り、墓をつくり、墓標を立て、そうして弔うために、安部公房は墓碑としてこの作品を書いたということである。
わたしは、安部公房の作品には、どの作品もすべてといっていいと思うが、密かにこの弔うという感情が伏流水のように流れていると思う。もっと言えば、喪われた少年時代を弔う感情である。
この弔いの感情は、晩年になって、思いがけず、仏教のご詠歌として「カンガルーノート」という地面に吹き出して来る。
死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語
聞くにつけてもあわれなり
二つや 三つや 四つ五つ 十にもたらぬ嬰児(みどりご)が
賽の河原にあつまりて 父上恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり
悲しさ骨身をとおすなり
かの嬰児の所作として 河原の石をとりあつめ
これにて回向の塔をつむ
これは、死んだ子供を回向する、弔う歌である。そうして、ご詠歌という仏教的な色彩を帯びた歌は、わたしたち日本人の心理と意識の古層から湧いて来た歌である。
歴史や伝統というものに、あれほど頑なに(といっていいほどに)抵抗し、あるいは否定し、時間の外に構造的な建築物を打ち立てたいと願って仕事をしてきた安部公房が、晩年になって、このような極々古めかしい日本人の意識の古層に戻って来たということ、それもモチーフは10代、20代初期の意識を濃厚に表わしている「終わりし道の標べに」のモチーフと何ら変わる事なく、その古層に戻って来たということは、わたしには誠に興味深いことに思われる。
このご詠歌は、安部公房の祖父母とご両親の故郷、香川という空海上人、弘法大師さまの遺徳を直接受け継いでいる風土から出て来たものだと、わたしは思う。両親の血であり、その風土から生まれた伝統的な意識だと、わたしが言うと、もし安部公房が生きているとして、このわたしの言葉を否定するだろうか。
資料を読めば、明らかに安部公房は、このご詠歌を気に入っている、好きなのである。
さて、エピグラムを見てみよう。初版(昭和23年10月。真善美社)のエピグラムと最終稿(昭和40年12月。冬樹社)のエピグラムには相違があって、それを比較することで、安部公房が何を考えていたか、何をどうしようとしていたかを見る事にしたいと思う。以下、文庫本の巻末にある磯田光一からの孫引きを。
初版のエピグラム:
亡き友金山時夫に
何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
僕だけが帰って来たことさへ君は拒むだろうか。
そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につながるのかも知れぬが……。
最終版のエピグラム:
<<亡き友に>>
記念碑を建てよう。
何度でも、繰り返し、
故郷の友を殺しつづけるために……。
初版のエピグラムから明らかなように、安部公房は金山時夫という親友の死を弔うために、そうして記念するためにその墓碑として、この作品を書いたのである。
この墓碑銘から解ることは、安部公房がこの親友をとても愛していたということである。ふたりでともに理解し合った濃密、濃厚な時間と空間を共有していたのだと思われる。
この友も孤独であった。安部公房も孤独であった。その死を悼む事が、この親友の思想に反する行為であり、その殺人に加担する行為であるかも知れないとすら言っているほどに。そうして、それほど、ふたりの関係は純粋であったのだと思う。純粋であったとは、この世のものではなかったということである。それほど深い関係であった。
このとき、安部公房は、その親友を殺すことはできないのだ。しかし、仮にそうなるとしても、安部公房はその親友の死を、その友人に相応しい形で、即ち個人的な痕跡を少しも残さずに、しかし仮構された作品として残しておきたかった。
そうして、手記という体裁で、「終わりし道の標べに」という題名の小説を書いたのだ。
安部公房は、親友の死に至って、ひとつの道が終わったと感じだのだろう。それが題名の由来である。そうして道の終わりから、その地点に墓をつくり、墓標を立ててから、新たに歩き始めることを決意した。
しかし、それは何か新しいことを始めるということにはならない。その後の歩みはすべて、その親友の弔いであり、しかも個人的な弔いではなく、もっと普遍性を持たせて、従い上に述べた手記の論理的な構造を使って、一般的な話として、その喪われた経験、その空間と時間の思い出を新しいものとして仮構することが、安部公房にとっての、その後の仕事の、深く隠された意義であったのだと思われる。
最終版のエピグラムには、その意志の転換を見てとることができる。
何度でも、繰り返し、
故郷の友を殺しつづけるために
そのために、安部公房は小説を書いたということなのである。
この場合、もはや故郷という言葉の意味は、具体的な名前のある田舎の土地なのではないことは明らかだろう。
このエピグラムの後、小説の冒頭には、粘土塀が出て来る。
この粘土塀という形象(イメージ)は、その後も安部公房の小説に、幾つにも変形して、変奏を繰り返して現れ、ある時は壁になり、砂になり、他人の顔になり、迷路になり、箱になり、また箱ということから連想されるように、方舟になりして、繰り返し現れるのである。
「第一のノート 終わりし道の標(しる)べに」とある最初のノートの題の次に、次のような一行がある。
終わった所から始めた旅に、終わりはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ。何故に人間はかく在らねばならないのか?……。
この問いと、この問いに答えようとする意識は、安部公房のその後の小説の主人公達の意識である。
粘土塀は、次のように言い換えられている。
1。霧の中で重い乳色に身をすりよせて、追憶にまぎれ忘れられた崩壊
2。あの寂寥にはふさわしい無秩序な道の顔
3。其処(粘土塀)からは果てしもない氷雪の原が、何処からともなく去来する視野に、ときおり過去の、あるいは未来の、赤裸々な調律をのせて送りとどける。
更に文が続き、この粘土塀は、忘却だけが創りあげうる形象であると、実に明確に書いている。芸術家は、本当のことをいうものだ。あるいは、事実という現実について語るものだ。これは、飾った言葉ではない。
この粘土塀の前では、主人公は、「もう自己を断言することさえ出来なくな」るのである。
(この稿続く)
[岩田英哉]