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2012年10月31日水曜日

ヤマザキマリのジャコモ・フォスカリを読む2




allenさんのコメントを読んで、安部公房について、更に考えることがありましたので、重ねて筆を執りたいと思います。


allenさんのコメントは、次の通りです。


「『反劇的人間』(安部公房、ドナルド・キーン共著)を読み返してビックリしました。『ジャコモ・フォスカリ』の中のジャコモと田部の発言そのものがあったからです。

(略)

ドナルド・キーンによる「あとがき」で、安部に日本酒の炭酸ソーダ割り(即席シャンパンのつもりだったらしい)を飲まされて、麻薬中毒者かどうかのテストをされたエピソードが書かれています。」


このように安部公房が後年になってまで、その人間をみて麻薬中毒患者に特有な特徴をみて、判断するというには、仮にそれが半分は遊びごころであったにせよ、やはりそれを実際に観察して知るという経験がなければなりません。


安部公房は、一体いつそのような知見を得たのでしょうか?


と、自問自答してみますと、やはり、10代に満州の奉天にいた時代ということになると思います。


安部公房は子供時代に、満州で町の中を冒険して歩いた経験を後年語っておりますので、その経験の中で麻薬中毒患者の様子を見たのかも知れません。


安部公房の小説の処女作「終りし道の標べに」は、多分日本文学史上初めての、阿片患者、麻薬患者の手記ですが、この発想をするほど、阿片患者の印象は安部公房に印象が深かったということになります。


わたしは専ら作品のテキストを読むことに意義を覚え、それだけに集中する人間で、個人の事績には、どちらかというと敢えて興味も関心も持たないようにしている人間なのですが、しかし、安部公房のことですから、もし詳細な事情をご存知の方、またその可能性を資料等でご存知の方がいらしたら、ご教示下さい。


[岩田英哉]


2012年10月29日月曜日

もぐら通信の10月号(第2号)をお届け致します。





こんにちは、

頭書の件、もぐら通信の10月号(第2号)をお届け致します。

お読み戴ければ、幸いです。

もぐら通信(第二号)のURL

または、



ご感想などお聞かせ下さると、ありがたく思います。

では、安部公房とのよいひとときをお過ごし下さい。


次の通りの目次です。

1。安部公房の生涯:w1allen
2。安部公房ゆかりの地、旭川を訪ねて:岩井枝利香
3。「デンドロカカリヤ」の同時代性:冨士原大樹
4。「砂の女」について:柴田重宣
5。安部公房記念館を構想する:OKADA HIROSHI 
6。もぐら感覚4(触覚):タクランケ
7。安部公房誕生の秘密:岩田英哉
8。18歳、19歳、20歳の安部公房(19歳、20歳の安部公房):贋岩田英哉
9。もぐら通信の編集方針
10。編集者短信
11。編集後記


もぐら通信
編集部一同

2012年10月27日土曜日

ヤマザキマリのジャコモ•フォスカリを読む



ヤマザキマリのジャコモ•フォスカリを読む




わたしが何故この漫画を読んだかというと、allenさんが、ヤフー掲示板で、この漫画のことを書いていたからです。

今の所第1巻が単行本で出ています。現在「月刊officeYOU」という雑誌に継続中の漫画です。

この漫画に、安部公房をモデルにした、それにしては安部公房そっくりの作家が出て来ます。それから、もうひとり、安部公房と肝胆相照らした作家、三島由紀夫も登場します。

それぞれ、田部光春という名前、三島由紀夫は、岸場義夫という名前で登場します。光春という名前は、安部公房の実際の弟御の春光さんの名前をひっくり返して(ここが安部公房のセンス)命名したのだと思います。

この作者の言葉によれば、この作品は、1960年代という時代、多分作者が育った時代と、イタリアという、これも作者に「強い影響」を与えた、ふたつの時代を、ジャコモ•フォスカリというイタリア人と日本人の作家たちと、それから近親相姦的な関係にある共に美しい姉と弟、これらの人間たちを巡って話が展開をします。

主人公のジャコモは、子供のころ下僕の子供だったアンドレアに強く惹かれます。その惹かれる理由は、その美しさにありますが、実は、アンドレアが社会の規則の外にいる、貧しいが自由奔放な人間であるからです。

この先、これらの登場人物たちを巻き込んで一体どのような話が展開するのかは分かりませんが、しかし、この作者が何故この物語を書き始めたかは、よく分かります。

それは、やはり、アンドレアという、法律の秩序の外にいる人間に魅力を感じているからです。それを社会的な地位の高い名家の息子、ジャコモの目を通じて、描こうとしているのです。

この同じ動機が、何故この漫画家が安部公房の愛読者であるのかという理由に、そのままなっています。

安部公房を何故好きになって愛読して来たか、その経緯をご自分のブログでお書きになっているので、お読み下さい。また、一部を以下に引用致します。


かつて留学先のイタリアで貧窮状態に陥っていた頃、私は胃袋を満たせない代わりに安部公房の作品を貪(むさぼ)るように読んだ。安部作品を読む事で惨憺(さんたん)たる自分の生活を漸(ようや)く客観視し、不安定だった精神のバランスを保っていた。イタリアへルネッサンス絵画の勉強に赴いていながら、恐らく当時の私に最も強い影響力を齎(もたら)したのは安部公房だろう。執拗(しつよう)に読み返してしまう幾つもの彼の作品の中でも、世界3カ所にある住処(すみか)全てに常備してあるかけがえのない本が、先のワープロで初めて書き下ろしたという長編『方舟(はこぶね)さくら丸』だ。

また、この漫画家は、「ワープロと安部文学の見事なコラボの結果として生まれたこの作品を、私はこの作家の生の声を聞く様に何度でも読み返している。」と最後に締めくくっています。

本当に安部公房を読んで、生きて来たのだという思いが伝わって来ます。

相当安部公房のことに詳しい様子で、それは漫画家なのですからそうかも知れませんが、しかし、安部公房がサイダーを満州時代に製造していたこと、オペラ、即ち劇的なものが嫌いな事(それはそうです、安部公房の主人公はみなアンチ•クライマックスを迎えるアンチ•ヒーロばかりです)、ジャコモ(実際にはドナルド•キーン)を麻薬中毒者と決めつけるところ、田部が発明好きで「静電気によるホコリ除去装置」を発明するところ、それから多分本当だったのでしょうが、マリリン•モンローが好きだというようなエピソードなど、ジャコモとの会話の中に、全くマニアックに散りばめています。

追記:
安部公房が春ちゃんと呼んでいたというエピソードは、「郷土誌あさひかわ」H2410月号の北川幹雄氏の文章に載っているとのことです。allenさんからのご教示をいただきました。
[岩田英哉]



「終わし道の標べに」を読む7:13枚の紙に書かれた追録



「終わし道の標べに」を読む7:13枚の紙に書かれた追録

3つのノートを書いた上に、何故この追録が必要であったのか。それを、以下に引用する文章によって、知ることができる。

これらの言葉を、語り手は書かずには、3つのノートを締めくくることができないと思ったのだ。これは、そういう意味では、3つのノートの種明かしでもある。勿論、既に3つのノートのあちこちで、繰り返し変奏された主題ではあるのだけれども。

以上述べ来たり、論じ来った3つのノートに対するわたしの感想を読み、以下の引用を読むと、10代、20代の安部公房の姿が、鮮明になるのではないだろうか。勿論、その姿は、晩年に至るまで、変わることがない。

1。引用1
粘土……本質的に形態をもたぬもの……したがって、あらゆる形態が可能であり、しかもそのすべての形態が、つねに過程にしかすぎぬもの……あたかも、大地の霧のように……霧……あの出発の朝……もしかすると、私の十年間は、単にあの朝の反復にしかすぎなかったのではあるまいか。境界線を踏み越えようとする、ただその瞬間の……。

しかし、いま問題なのは、この結晶の芯にあるものが、はたして行為なのか、それとも単なる認識なのかということだ。そう、それこそおそらく問題の核心に違いない。できればもう一度、あの粘土塀の終わったところ、荒野の門に、立って見ることだ。

(省略)書くことの意味を問われたら、私はたぶん、答えることだと答えるしかなかっただろう。しかし、なぜ答えなかればならないのかは、私にもさっぱり分からない。

2。引用2
しかし私は、やはり書くだろう。その若者のことを書き、陳のことを書くだろう。いずれ私はそんなふうにやってきたのだ。たとえ誤解であろうと、行為のつもりで歩きつづけてきたのである。認識のない行為は、地獄かもしれないが、行為のない認識は、たぶんそれ以上に地獄なのではあるまいか。

3。引用3
ここはもはや何処でもない。私をとらえているのは、私自身なのだ。ここは、私自身という地獄の檻なのだ。いまこそ私は、完璧に自己を占有しおわった。もはや私を奪いにくるものは何もない。おまえ(傍点あり。第2のノートに登場する10代の美しい娘のこと)の思い出さえ、すでに私には手がとどかないものになってしまった。手をうって快哉を叫ぶがいい。いまこそ私は、私の王。私はあらゆる故郷、あらゆる神々の地の、対極にたどり着いたのだ。

だが、なんという寒さ?なんという墜落感?間もなく日が沈む。そろそろ書いている字も読めなくなってきた……。
 さあ、地獄へ?


(この稿続く)

2012年10月22日月曜日

安部公房とバロック様式


バロック様式とは、17世紀のヨーロッパ、ドイツが諸国に蹂躙された30年戦争の起きた時代の様式で、その時代からいっても、人間が今日在ることが明日は無いかもしれない、自分は今日生きているが明日は死ぬ事があると考えたことから生まれた様式です。


その文章上の様式、即ち文体においては、息の長い文体でありました。そうして、もうひとつの特徴は、グロテスクであることを厭わないということです。

安部公房を発見した埴谷雄高は、自分と同じ主題を探究する若い作家を発見したということの他に、やはり、上に述べた死生観から言って、ともに自分自身を未分化の状態におくという、そのような物と考え方と態度に共感を覚えた筈です。

未分化の状態の人間とは、全く社会の中に生きている人間とは異なって、その外に展開する宇宙のことを思考する。そうして、法律の外に生きている無名の人間です。

また、そのようなことから言って、未分化の人間とは、社会的な役割を演ずることのない状態、即ち素っ裸の人間という意味です。従い、社会的には、無能力者であり、無力である人間です。

その同じところから書き始めた埴谷雄高には、ネスト構造(入れ籠構造)の重畳長大な文体が、他方、安部公房には、グロテスクネスが、日本語の文学の世界に生まれたということになるでしょう。

それが、大東亜戦争に敗北した後の戦後に生まれたということが興味深いことです。戦後という時代も、本来やはり、明日のことはどうなるかわからない時代だったのではないでしょうか。大多数の人間達は、芸術家も含めて、これらふたりとは全く正反対の道を歩んだように思われます。

さて、そうして、安部公房のグロテスクネスと言えば、やはり密会という小説を思わずにはいられません。

これらの特徴の他に、バロック様式の精神から生まれた、その特徴のひとつに迷宮、迷路というものがあります

わたしの好きなドイツのバロック様式の庭園に、シュヴェッツィンゲン (Schwetzingen)という町にある宮殿の庭園があり、そこに、世界の涯(はて)と題された庭園があります。

その写真を掲示しますので、ご覧下さい。最初がその庭園の全体です、その庭園の世界の涯を眺めるために立つ場所、次に遠景、その次に近景です。

17世紀のドイツ人の創造した世界の涯をご覧下さい。

安部公房の小説が迷宮と迷路の小説であることは、いうまでもありません。

そうそう、もうひとつ。ドイツのこの17世紀のバロック小説に、わたしの好きな阿呆物語とい小説があります。

これは、安部公房の小説の主人公同様に、ふた親のいない孤児が主人公で、森の中で隠者に育てられ、その後森を出て当時の混乱した社会を遍歴する物語です。

当時出版されたこの本の表紙の写真をお目にかけます。人間の真の姿は、実は、今も昔も、このようにグロテスクな、奇怪な姿なのではないでしょうか。

[岩田英哉]














2012年10月21日日曜日

「安部公房 小説を生む発想 「箱男」について」(カセットテープ全4巻。約1時間) を聴く。



「安部公房 小説を生む発想 「箱男」について」(カセットテープ全4巻。約1時間) を視聴する。


冒頭に、ブラックジャックという凶器の話をして仮説とはどのようなものかの話をする。そのような凶器をつくると、応用範囲が広い。女の人が自分の亭主を殺すときに役に立つ。殺した後に赤ん坊の傍にそっと凶器を置いておくと警察も疑わない。完全犯罪にとってもよい凶器。これを使っても、発見されない。だから、保険のセールスをやっている方には応用範囲が広い。実は、自分は過去にやっていたことがあると言おうと思った。といって、心配させ、驚かせてやろうと思っていた。

安部公房は、これは仮説なんだと何度もいいながら、いや話そうかな、話すと仮説だから実につまらないんだと何度もいいながら、話を始める。
(この語り口そのものが、安部公房の物語の語り口。これは仮説だ、しかし、仮説だと思わないで聞いて欲しいという安部公房の言葉。)

この話をしたのは、小説を書くのには、テーマが先にあるわけではないということを伝えるためにしようと思った。

箱男の、乞食の話をたねにして、ものごとを発想する手順について語り始める。
(上野公園の乞食の取り締りを取材にいった話をし、そうして警察署の廊下にひとりだけ箱を被ったままの乞食がいる話をして、いつのまにか聞き手は安部公房の世界に引き入れられてしまいます。
警察署の廊下に箱を被った乞食がひとりだけいたというところは、そうして安部公房が箱男をみると、向こうもビニールの幕を一寸体をかしげて開け、僕の方をみるのだ、そうするともう実に惨めな気持ちになって、負けてしまうという話も、もう安部公房の創作なのだと思いますし、そう考えれば、安部公房が上野公園に住む乞食の取り締りを取材にいったかどうかも怪しくなります。安部公房の文学は仮説設定の文学です。)
しかし、それはそれでいいのです。問題は、このような巧みな語り口が、仮説設定の上で成り立っているということです。これが安部公房の文学の特徴のひとつだと思います。
乞食=登録されない世界。世間に対して義務も権利も放棄した。登録されないもの=偽者。贋医者。
箱男=箱を被る=匿名性、だれでもない=あらゆる人間でありえる。世間からみるとゆるし難い。
小説を書く為に、感覚的にある領域にあるものに集中する。テーマが先に、プロットが先にあるのではない。
(安部公房にとって、作品を書くということは、自分自身を想い出すことであった。自分自身を知る事。)
親=子供は親に反逆する。親は子供に悪いから親は虐殺すべきだ、というと、親は嫌な気持ちがする。子供には、親が死んだらほっとするという感覚が必ずある。
民主主義は、市民の匿名性の上になりたっている。身分や財産で区別されない個人でなりたっている。そのひとがだれででもあり得る。誰でもなく、且つ誰でもあり得る。=箱男。その姿は、民主主義の原理として、夢として、みながどこかに抱いている姿。登録を拒否して、偽者になってしまうという姿。
民主主義を突き詰めて考えると、国家に行き当たらざるを得ない。

映画の脚本は、小説の作り方と逆。最初に骨組みを作る。骨の上に肉付けして行く。不可解なものがない。
ひとのこころを打つとしたらそれは、整理されたテーマ以前のこと。(傍点筆者)
人間というものは、完全に満たされた、充足した独房、完全に欠乏した自由というのがあって、どちらを選ぶかと言えば、後者を選ぶのではないか。前者は、あらゆる時間を予測し得るということ。予測可能なところに自分をおきたいという願望がある。それから脱出したいと思ってもいる。そのせめぎ合いが人間。
予測を拒否すると、自殺するという場合があり得る。


文学作品とは何かといえば、「自分自身の日常生活から起きうる予測可能な領域、これに更に深いメスを入れて、ある意味で分かっていたはずの未来をさまざまに変形したり、違う可能性をそこに与えてみたり、実は自分自身を予測不可能な状態に追い込む効能が文学に求められている。」それが、占いと対照的な機能として、文学に求められている。
欠乏した自由に身を置くということが、文学、藝術一般に対する願望といえる。欠乏した自由に読者を追い込むという文学もある。人間を不安に陥れる、欠乏した自由に人間を追いやる。これは、文学の本質。それ自身では役に立たない筈の文学の存在理由は、そこにある。
存在するいろいろな機能の中で、未来を予測可能という形で働いているものが多々ある。自然科学。自然科学は、予測、因果関係、必然で説明をする。安定させる方向に人間を持っている。他方、文学は、その反対の働きをする。

芝居の読者と小説の読者の分裂。わたしの読者にみてもらえる芝居をつくりたい、ふたつの読者が一致する芝居をつくりたい。観に来て欲しい。そういう質の高い芝居をつくりたい。これは、切実な願望。他の芝居は観なくても言い。芝居一般を好きになってほしくない、それは僕の芝居の読者ではない。僕の芝居だけを観て欲しい。

[岩田英哉]









2012年10月20日土曜日

「終わし道の標べに」を読む6:第3のノート



「終わし道の標べに」を読む6:第3のノート

第3のノートには、知られざる神という副題がついている。

第3のノートの主題は、自己を占有することについてである。

どのようなことになったならば、存在からの逃亡者、どこにも血縁の家族にも無関係な孤児は、自己を占有できるというのであろうか。それは、このノートの最後に、次のように書いてあるところを見ると、解る。

とつぜん幸福な笑いがこみ上げて来る。ゆっくり小出しに、時間をかけて、できることなら、永久にでも笑いつづけていたかった。だが、いったい何を?むろん、この瞬間を、この私をだ。逃走に逃走をかさね、どこにもたどり着けなかった、この私をだ。べつに滑稽だから笑うのではない。逃走を手段だと考えれば、なるほど<<かく在る>>私は、否定さるべき敗者かも知れぬ。手段の途中で、宙吊りになった、哀れな矛盾の道化師かもしれぬ。しかし私は、せめて自分のこの強情さを祝福してやりたいと思うのだ。……いまこの私は、確実に、私以外の誰のものでもあり得ない。

この「私以外の誰のものでもあり得ない」私を、「知られざる神」と呼んだのだと思われる。

このとき、語り手は、阿片のせいかどうか不明であるが、粘土塀の内側の村の中と、その塀の外側に、同時に(同時にとは何か?である)いることができているのだ。それを、語り手は、自己を占有した状態と呼んでいる。

第3のノートの比較的前の方で、語り手は、神との関係で、自分自身のあり方について、次のように言っている。

くりかえして言うが、私には私だけで沢山なのだ。神にとって、神が自分自身であるように。

これが、知られざる神という副題の意味である。そのような自己のあり方が、第3のノートの最後で、上に述べたように、達成されている。


(この稿続く)

2012年10月19日金曜日

ウィキペディアの記述を正すの記

Wikipediaの「安部公房」に東大医学部の「卒業口答試験では人間の妊娠月数を二年です、と答えるなどひどいものだった」との記述があり、その根拠として養老孟司が「本人から直接聞いている」とその書かれた著書を揚げています。

この記述は「ウィキペディアに書いてあった」という権威づけと養老孟司という権威づけのもと、事実ととらえられて2chの安部公房トピやtwitterでもよく揶揄される事態が長らく続きました。「安部公房ってそんな常識的なことも知らなかったんだ。」と、それは半ば優越感をくすぐられて、そのゆえになおさら、人口に膾炙して広がりました。

私はまず、東大医学部の卒業試問でそんな簡単な問題が出るのか、疑問を抱いていました。また安部公房が養老孟司氏にそう言ったとしても、ジョークの部類では、とも思っていました。そのうち、この件について大江健三郎氏からの有力な情報があり、掲示板でそれを発表したことがあります。今回、ながらく懸案だったWikiの記述をやっと訂正することができましたが、その間の事情をここに書いておきます。

まず元の記述の根拠になっている養老孟司氏の『小説を読みながら考えた』(2007/04双葉社)の該当箇所を見てみました。そこには
「この卒業試験は伝説になって残っている。」と始められていました。えっ、伝説なの?と私。
そして安部公房が言うには、口頭試験において教授は安部がほとんど答えられないので、なんとか通してやろうとだんだんやさしい問題になる。最後に人間の妊娠月数をいってみろといわれたので、二年ですと答えたと。そして卒業したらどうするのかを聞かれ、作家になりますと答えると、繰り返しただされた後、それなら通してやろうといったと。
この伝説を、安部公房が「正確に伝えるから、と私という後輩に丁寧に説明した話だから」ほぼ本当だと思う、と養老氏は書いています。でも氏は「本人と私の記憶違いが当然入っているからはずだから、まったく事実とはいわない」と慎重です。

まずこの話のおかしいのは、落第した年の話と卒業の年の話がひとつにまとめられていることです。「二年と答えて落第した」伝説のはずです。そして「消しゴムで書く」という姿勢で自分の生活などは語らない主義の安部公房が後輩の養老氏を選んでわざわざ「正確に伝えるから」というのは、そこに安部公房の仕掛けを見ることができるのではないでしょうか。そして陰でほくそ笑んでいるかもしれません。この安部公房のユーモアについては、安部の親しい友人である辻井喬氏がこの話について尋ねたところ「まあね、似たようなことはあったよ」と実におもしろそうな顔で言ったと伝えています。(「へるめす」1993/11)


博識をもって鳴る安部公房があなたに「妊娠期間を二年といった」と言えば、あなたはすぐ信じますか?えっ、うそでしょう、というのが普通の反応だと思います。まして安部公房は医者の息子です。そして卒業の前年には学生結婚をしているのです。妊娠期間として俗に言い習わされている「十月十日(とつきとおか)」という言葉も知らないはずはないと思うのです。それを養老氏の伝えるような完璧なストーリーに仕立て、伝説を否定するどころかむしろ補強しているではありませんか。そしてWikiにはそれが事実として引用されてしまいました。
それにしてもWikiの引用者は、養老氏がくり返し「伝説」という言葉を使い「まったく事実とはいわない」としているのに事実として引用しているのはどうなんでしょうか。

さてこの話についての大江健三郎氏の伝えるところは次のような内容です。(朝日新聞2008/5/20「定義集」による。養老氏の本のほぼ1年後です。大江氏はこの本を読んでいたかも知れません)

「お付き合いの初め、安部さんから――君は象の妊娠期間を知らないだろう、といわれました。ジェラルド・ダレルの動物採集記を集めるなどしていた私は、18~22ヵ月、ふつうは19ヵ月、と答えました。画家だった真知夫人が脇から――安部はそれが分からなくて東大の追試に落ちたのよ、と言われました。」
さらに氏は東大医学部卒業アルバムに関する本に出会い、長谷川敏雄教授について「安部氏が医師としてでなく作家として生きていくと約束したので、やっと卒業が許された。この天才の卒業を1年遅らせた、と後に長谷川教授は陳謝された」とあることをも記しています。(大江氏は安部公房と1958年までには会っています)

このようなことを総合的に考慮してウィキペディアの記述を次のように編集することにしました。
[編集前]  (長谷川敏雄教授による卒業口答試験では人間の妊娠月数を二年です、と答えるなどひどいものだったが、結局医者にならないことを条件に卒業単位を与えられた。)

[編集後] (長谷川敏雄教授による前年の卒業口答試験では人間の妊娠月数を二年です、と答えたということが伝えられているが、大江健三郎によれば安部公房本人は象の妊娠期間19ヵ月を答えられなくて落ちたと言っていたという。結局その翌年医者にならないことを条件に卒業単位を与えられた。)

それにしても今回調べてみて、あちこちのブログにこの修正前の記事がそのまま引用されていることを知りました。引用する際にせめて表示されている資料原典にあたってみることはできなかったのでしょうか。

[OKADA HIROSHI]

2012年10月17日水曜日

「終わし道の標べに」を読む5:第2のノート


「終わし道の標べに」を読む5:第2のノート

I  孤児の文学

第1のノートが、ふたつめの故郷、即ち存在からの果てしない、孤独の人間としての無限の逃亡の話、遁走の話であるのに対して、今度は、第2のノートは、その第1のノートの意識の連続のままに、主人公、即ち手記の語り手が、既知の友人とのある偶然の出逢いから、ある家族の後見人になる話である。

この友人の言葉によれば、手記の語り手は、「君には、幸か不幸か、両親もいなければ兄弟もいない。後見人の役を肩がわりしてもらうには、まさにおあつらえむきの人物じゃないか」と言われるように、孤児である。

第2のノートとは、第1のノートの語り手である孤児が何の血縁関係もない家族、一族の後見人、即ち偽の父親、偽の家長になる話である。

ここに、既に後年の安部公房の小説や劇作の種子が胚胎している。壁は勿論のこと、遺稿である飛ぶ男に至るまで。

わたしは、以前、安部公房の文学は、一言でいうと孤児の文学であると書いて、その小説の特徴を列挙したことがあるので、そのページをご覧戴ければと思う。(http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/07/blog-post_29.html

安部公房は、1943年に書いた小説、題未定の霊媒の話で、同じプロットを書いている。安部公房全集30巻の第1巻冒頭にある作品です。

少し当時の安部公房の仕事振りを整理してみよう。理論篇と実践篇にわけて、整理してみると次のようになる。

1。理論篇
(1)問題下降に依る肯定の批判(1942年:18歳)
(2)詩と詩人(意識と無意識)(1944年:20歳)

2。実践篇
(1)詩:没我の地平(1946年:22歳)、無名詩集(1947年:23歳)
(2)小説:霊媒の話(1943年:19歳)

10代の後半から20代の始めにかけて、安部公房は、理論の思索と、それから詩と小説の実作と、これら2つのことを同時並行して行い、3種類のジャンルの作品を書いていたということになる。

これらの理論と実践の作品は、いづれも互いに大いに関係があって、 別々に独立しているわけではない。理論篇と詩作の関係については、既にこのブログで、18歳の安部公房と題し、また19歳、20歳の安部公房と題して丁寧に、その理論篇を解読し、詩作品に対してその理論の適用をして詩作品を解読したので、読者にはそれらの記事をご覧戴ければと思います。

さて、第2のノートを読むと、霊媒の話について言及せざるを得ない。それはどのような話であるのか。

この話は、子供の居ない家に、村の外から物まねの能力を持つ孤児(10代の少年。18歳)が村にやって来て、その家に入って、死んだ婆さんの依り代(しろ)の振りをして(演技をして)、霊媒として、その家の中に入り込み、偽の関係の中に住みつく話である。

この孤児には本名はなく、芸名やら何やらで、色々な名前で呼ばれる、言葉通りの無名の人間である。

そうして、偽の家族関係に入り込む人間として、それは偽善者であると呼ばれている。この偽者であるということを巡って、主人公は、社会の道徳や倫理や、家族のことを、自分が犯したかも知れない老婆の殺人のことを、夢の中や現(うつつ)の中で、苦しみの感情とともに、あれこれと考え、思いめぐらせるのだ。そうして、最後には、主人公は、やはりその家から逃亡するのである。

興味深いことは、この作品は、散文でありながら、その中に詩が入っていること、即ち散文と詩文の混交した作品であるということ、更に即ち、そういう意味では、散文と詩文の未分化の作品であるということだ。

この作品から散文が独立して、第2のノートになるまでには、4年の時間が必要であった。


[備忘]何故安部公房は無名詩集を最後に、詩から散文(小説)または劇作に舞台を移したのか。アクション:対話、会話の展開の面白さと譬喩(ひゆ)、隠喩よりも直喩の多用。これが安部公房の小説の文体の著しい特徴である。それは、何故か。


II 第1のノートの果たした奇妙な役割とは何か?
第2のノートで、語り手は、「あのノートが果たしてくれた奇妙な役割のことからでも書き始めるとしようか」と冒頭のところで述べている。

この奇妙な役割とは、次のことである。

それは、このノートが他者との意思疎通(コミュニケーション)の手段、道具となったということである。

この場合、ノートは、主人公の知らぬ間に盗まれ、読まれて、また主人公の知らぬ間に、もとの枕の下に戻されるということ、これが大事なことなのだ。即ち、他者とのコミュニケーションに、主人公の作為がないということ、その目的がないということ、その読ませたいという意志の発露がないということが、大事なことであり、第1のノートは、そのような役割を果たし、語り手は、それを奇妙な役割と呼んだということである。

これは、その後の安部公房の小説で、手記の体裁をとっている小説の中でも、ノート(手記)の果たす「奇妙な役割」なのではないだろうか。その後の手記の体裁をとる小説において、手記の持つこの「奇妙な役割」の検証が必要とされる。

また、第2のノートは、書かれざる言葉と副題が付されている。書かれざる言葉とは何であろうか。

この第2のノートの終わりの方に次のような箇所がある。

<<終点の道標>>という言葉自体が、すでに自己を裏切る、矛盾した概念だったのだ。そう、今なら分かる、わたしの逃走は、自己を占有するための実験だったらしい。(省略)そら、早く逃げ出せ、誰かがおまえの自己を盗みかけているぞ!

わたしの考えでは、この「自己を占有」することについては、言葉で表現できない、行為と、従って、経験による以外には占有はあり得ないということ、そのような言葉のありかたを「書かれざる言葉」と言ったのではないかと思う。

この「自己を占有」するということは、第3のノートの表立った主題である。そうして、この第3のノートは、知られざる神という副題がついている。勿論、第1のノートと第2のノートの延長の上に、第3のノートがあることは、いうまでもない。


III 恋愛感情
手記の語り手は、偽の父親であるがゆえに、自分の擬似的な関係にある娘に対する恋愛感情が禁ぜられ、禁欲を強いられる主人公ということになっている。

この恋愛の対象は、10代後半のまだ、成熟した女性にならぬ前の、性の未分化の状態の娘に対する感情である。この感情の丁度裏返しに、語り手は、娼婦的な成熟した女性に対する肉体的な、また偏執的な愛情を持つのではないかと、わたしは思う。その後の安部公房の主人公の、女性に対する愛情のあり方や如何に。多分、この2種類の女性が、小説の中に現れるのではないかと思われる。

また、主人公が偽の父親、偽の家長であるということは、その家族もまた偽の家族ということになる。安部公房の小説は、陰画としての家族小説、ファミリー•ロマーンでもあるということだ。

(この稿続く)

[岩田英哉]

2012年10月13日土曜日

安部公房の墓2 


安部公房の墓2


安部公房のお墓に今日参りました。墓参を致しました。

その写真を掲載します。

安部公房のお墓は、東京都八王子市の郊外にある上川霊園という墓地にあります。

JR八王子駅下車北口駅前のバス停7番乗り場から八23または秋03上川霊園行き乗車所要時間約45分終点上川霊園下車霊園内周回バス乗車13番停留所下車徒歩20秒2区8番区画140です。

以下に安部公房の墓地の写真を、上から上梓します。それから、安部公房の敬愛せる師匠石川淳の墓も。(その他、詩人金子光晴の墓にも、一緒に詣でました。この写真は詩文楽をご覧下さい:http://shibunraku.blogspot.jp/2012/10/blog-post_13.html


1。上川霊園の門
2。2区8番区画の全景
3。安部公房の墓の全景
4。墓石近影
5。墓石側影
6。2区8番の案内板(番地が振られている。迷わずに辿り着けるだろうか?)
7。師匠石川淳の墓のある高台から見た安部公房の墓のある区画
8。石川淳の墓(石川とだけ書いてある。)
9。安部公房の墓の住所の書いてある、管理事務所でもらった番地案内図表の一部


安部公房の墓を探すのに30分掛かった。何故なら見つからないから。これは、わたしにはよくある経験なので、そうか、やはり見つからなかったか、それもわたしらしく、また安部公房らしくてよいかな、では石川淳の墓を詣でようと歩き始めると、右手に2区8番区画の案内板が立っていたのでした。

もし石川淳の墓を詣でるという心がなかったら、安部公房の墓を見付けることはできなかったことでしょう。石川淳に感謝です。

そうして、確かにありました。

目測で、縦40cm、横30cmの小さな、これは何と言う種類の石なのでしょうか、緑の中に白の線条が幾つも練られたように走っている小さな、無名無銘の墓石でした。

これは、如何にも安部公房らしい。遺族の方のこころが偲ばれます。

この石を見て、わたしが感じたのは、侘び寂びの精神です。

それは、安部公房の作品に対する世評とは全く異なり、また裏腹に、やはり、安部公房はこの侘び寂びに通じる日本的な伝統と歴史の中に、わたしはあるのだと思いました。

それは何故かといえば、10代から既に言語の本質を知悉して、無名に徹する人生を歩んだからです。安部公房の主人公は、みな無名無能の人物です。

それは、ひととことで言えば、風狂というのです。安部公房の文学は、一見そうは見えませんが、実は、風狂の文学です。

そのように言えば、日本文学の歴史の中に、安部公房の正統な(というと、本人は嫌うでしょうが)位置が見えると思います。

(その先達の一人は、間違いなく、吉田兼好です。それから、一休和尚、そして、松尾芭蕉。)

それは、只々無名に徹するという精神から生まれた世界です。

日本人である個人が無名に徹するという人生を選択したときには、日本人のこころは、その人を、侘び寂びの境涯、風狂の世界へと運ぶもののようです。

ドナルド•キーンさんが、安部公房は実に日本的な作家だといっていることは、このことと深い関係があると、わたしは思います。

勿論、18歳、19歳、20歳の、10代の作品を読むと、実に論理的に宇宙を思考し、個としての人間を思索しています。その思索の徹底性から生まれた後年の小説群、劇作群であることは、間違いありません。

実に人間である自分自身に徹して言葉を体系的に紡いだ安部公房。

もし、あなたが安部公房の墓参にいらっしゃるのであれば、わたしは八王子に住まいしておりますので、よろこんでご案内致します。
ご連絡下さい。

そうそう、管理事務所でもらった墓地に眠っている有名人の表に、安部公房があるわけですが、その名前が阿部公房になっていたので(写真をごろうじろう)、帰り際に、その管理事務所により、地図をもらった年配の社員の方に再度声を掛けてお礼を申し上げ、安部公房の読者がこれからも来ると思うから、名前を阿部公房から安部公房に訂正して下さると有難いとお願いしたところ、それは訂正しますと言って、こころよく備忘を書いていてくれておりましたから、次回あなたが詣でるときには、貰う表の名前は安部公房に訂正されていると思います。まあ、こんなことが言えるというのは歳の功ということでしょう。

以下写真をご覧下さい。


[岩田英哉]

















もぐら感覚2


もぐら感覚2



更に、しかしまた、もう少し、安部公房の感覚に忠実に考えてみましょう。

安部公房全集第1巻に「<僕は今こうやって>」と題した、見開き2ページの文章があります。これは、安部公房19歳のときの作品です。

そこにこう書いてあります。

「僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云う事はもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。」


この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」とは、なにかこう、いかにも土を掘るような感じを与えます。

この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」のことを、後年、安部公房は「消しゴムで書く」と言っています。

(この「えぐり取」るという感覚は、造形的な感覚です。わたしはここに、リルケの深い理解をみるものです。リルケの詩もまた、時間を捨象した、即ち変化しない、空間の、造形的な世界だからです。)

もぐらのように外面をえぐり取るということはどういうことかといいますと、目の前にある物事を形象、イメージに転化して、そのイメージを言葉で表すということ、作家のこの仕事のことを言っています。

これが、安部公房のいう「詩以前の事」(「第一の手紙~第四の手紙」)を語ることなのであり、その形式が、手記という形式なのです。(安部公房にとっての詩と小説の関係について:http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_28.html

従い、譬喩(ひゆ)でいうならば、安部公房の書いた手記形式の小説とは、みな、語り手のもぐらの手記なのです。

遺稿の中に「もぐら日記」という日記があって、その日記にもぐらを冠した安部公房の感覚は、こう考えて来ると、よくわかります。

わたしも多分、もぐらの中の一匹なのでしょう。

いや、こうして安部公房の愛読者である、あなたもまた。


[岩田英哉]

2012年10月10日水曜日

「終わし道の標べに」を読む4:カンガルー・ノートの形象(イメージ)



「終わし道の標べに」を読む4:カンガルー・ノートの形象(イメージ)

この小説の第1のノートを読んでいて、思いもかけず、最晩年の小説、カンガルー・ノートの形象(イメージ)に遭遇したので、備忘のために書き留めておこう。それは、次のような文章である。


手術台に載せられ、長い廊下を右へ左へと引き廻されたあと、ふと一切の時間がとだえたように車が止り、突如固定した静寂の中に投げ出される。
(安部公房全集第1巻298ページに初出。既に初版でこの一行がある。冬樹社版にもそのまま残っている。)


それから、この第1のノートを終わりまで読んで思うことは、もしこの小説を一言で言い、この小説に別の名前を与えるとすると、それは、阿片吸引者の手記であろうというものである。

このようにこの小説を読み替えてみると、日本文学史に、このような阿片吸引者を書いた小説があっただろうか。

今インターネットで検索すると、陳瞬臣の阿片戦争という歴史小説が検索されるが、阿片吸引者の小説の名前は見当たらない。

阿片というものが、逃亡者の意識の苦痛を和らげる作用をすることで、手記の正気を保つことに資するようにという、主人公が阿片を吸引する意味もあれば、同時に(同時にとは何か、である)、阿片によって狂気と夢を招来するように働くという意味もあるのだろう。

2のノートは、この意識のたゆたい、意識と無意識の境界線上の意識を削るように書いて行くことになるのだろうと推測される。

(この稿続く)

[岩田英哉]

2012年10月8日月曜日

安部公房の墓


安部公房の墓

安部公房の墓を調べると、わたしの棲んでいる八王子にありました。

上川霊園という霊園にあります。このようなところにある霊園です。


この写真が当初の姿を伝えているようです。木でできたお墓でありました。


この写真をみても、木ですから、既に朽ちているのがわかると思います。

そのあと、次の石のお墓になったようです。


このウエッブサイトの説明を読むと、安部公房のお墓の上には、石川淳のお墓もあるようです。

来週の週末に、安部公房の墓参に参ろうと思います。それから、安部公房の敬愛した師匠ともいうべきアナーキスト、石川淳のお墓にも。

「終わし道の標べに」を読む3:2つの故郷について




「終わし道の標べに」を読む3:2つの故郷について

第1のノートの始めの方で、この手記の語り手は、故郷には次のふたつがあるといっている。

1。「ひとつは、われわれの誕生を用意してくれた故郷であり、」
2。「今ひとつは、いわば<かく在る>ことの拠(よ)り処(どころ)のようなものだ。」

前者は、普通にこの世に生を受けたときの、何々県、何々町、何々村という古里であり、後者は、「<かく在る>ことの」故郷である。

既に前回の稿で述べたように、この後者の故郷とは、「かく在ること」(das Dasein、ダス•ダーザイン)の故郷であるので、それは、存在、das Sein、ダス•ザインのことである。

埴谷雄高は、この存在に挑む異母兄弟という主人公達を創造したが、他方、安部公房は、この手記を読むと、「人間は生まれ故郷を去ることは出来る。しかし無関係になることはできない。存在の故郷についても同じことだ。だからこそ私は、逃げ水のように、夢幻に去りつづけようとしたのである。」とあるように、存在という二つ目の故郷から永遠に逃れて行く、遁走する主人公を創造したということになる。

そうして、興味深いことは、主人公が、逃げ水のような遁走の決心をするや否や、次のような事態が出来するということである。

「だが突然おそろしい勢いで一切が崩れ去る。ちょうどあの粘土塀に凍りついた外気のように……。その霧の中に、幅も奥行きもない、己を覗きこむ影が静かに浮び出て……人間が在るように在るという、蜘蛛の糸の謎をひろげる。そのように<<私も在る>>のだという銘をのなかに、私の苦悩を眠り込ませようとして……。」

この引用は、安部公房が10代から20代の始めに書き溜めて、23歳のときに「無名詩集」と題してつくった自家板の詩集の中の次の詩篇を連想させる。

倦怠

蜘蛛よ
心の様にお前の全身が輝く時
夢は無形の中に網を張る
おゝ死の綾織よ
涯しない巣ごもりの中でお前は幻覚する
渇して湖辺(うみべ)に走る一群のけだものを


蜘蛛がこの網の主人公となっている。この詩を読むと、この倦怠という題のもとに歌われた蜘蛛とは、ほとんどその後の安部公房の小説の主人公の意識であるかのように見える。

現存在、Das Dasein、かく在ることを拒否し、そうして同時に(同時とは一体何だろうか)、存在、Das Seinからも逃亡するときに生まれるこの崩壊を、この手記の冒頭では、粘土塀に表象させ、形象させ、象徴させているのだ。

これは、単に言葉の綾などというものではなく、このような散文を読んでも、また詩文を読んでも、実際に安部公房の経験した現実であると思われる。即ち、譬喩(ひゆ)ではないのだ。

夢を語って、そのままそれが現実になっているというこの能力が、安部公房の能力である。


(この稿続く)


[岩田英哉]

2012年10月7日日曜日

もぐら感覚1


普通ひとは、咲いた花しかみない。咲いた花をみて愛で、嘆賞するものです。

しかし、安部公房というひと、あるいはその読者、もっと云えばそその愛読者であるひとは、花などよりも、その花の生まれる土壌とその土の中にある根っこがどうなっているのかということの方に興味のある人間なのだと思います。

種を土の中に播(ま)き、播いた種がどのように発芽するのか、そうして発芽して、それが地上を目指して伸びて行くのか、そのことに興味がある。その瞬間とその場所だけに興味津々たるものがある。

これは、まあ、人間がもぐらになってようなものです。あるいは、もぐら人間です。

安部公房の亡くなった後、遺稿のひとつに「もぐら日記」と題された日記がありますが、日記をそう命名した安部公房の心中は、上のようなものではなかったかと想像します。

土の中に穴を掘って、その穴の中で生活する。

このような人間の、日本語の世界での割合と遠い先達は、吉田兼好だと、わたしは思っています。

花は盛りを、月は隈(くま)なきものを見るものかは

富士山や桜の花の嫌いだった安部公房の言葉と発想に実によく似ているではありませんか。


[岩田英哉]

2012年10月6日土曜日

もぐら通信(創刊号)のアーカイヴのアドレスをお知らせします


前回お知らせした、もぐら通信のストーレジサービスの保管期限が明日で切れますので、新たに、恒常的なもぐら通信(創刊号)のアーカイヴのアドレスをお知らせします。

allenさんの安部公房解読工房の次のURLアドレスへいらして下さい。

http://w1allen.up.seesaa.net/image/E38282E38190E38289E9809AE4BFA1EFBC88E589B5E5888AE58FB7EFBC89.pdf

よろしくお願い致します。

追伸:
ご感想、ご寄稿など戴ければ、誠にありがたく思います。

「終わし道の標べに」を読む2:安部公房の小説と神話の構造



「終わし道の標べに」を読む2:安部公房の小説と神話の構造

この小説は、「かく在る」ことからの逸脱、逃亡、逃走、遁走の小説である。

「かく在る」ということを、ドイツ語でdas Dasein(ダス・ダーザイン)という。

「かく在る」とは、次のふたつのことからなっている。

1.今かく在る。(時間)
2.この場所、ここに、かく在る。(空間)

これが、Dasein(日本の哲学者は、現存在と訳した)という言葉の意味です。

こう書いてくると、安部公房の小説の主人公たちは皆、「かく在る」こと、即ちdaseinということからの逸脱と遁走の志を持った主人公たちであることがわかる。

これは、簡単に説明するとどういう話かというと、それは浦島太郎の話と同じ話である。

浦島太郎は、あるとき、ある場所で(これが「かく在る」ということ)、子供たちにいじめられている亀を助けるという契機によって、全く別の世界(竜宮城と呼ばれる世界)に行き、そこで暮らして歳月(時間)を忘れるが、その暮らしに飽きて、お土産(玉手箱)を貰って、もとの世界に帰って来ると、自分自身が変容しており、(白髪白髭)のおじいさんになっているか、または世界がすっかり変わっている。

埴谷雄高は、安部公房のこの小説を採用するに当たって、この小説を正しく理解したことは間違いがないと思われる。何故ならば、埴谷雄高の書いていた小説「死霊」とは、三輪家の異母兄弟たちが、人間に同義語反復の文の生成を許さない、または赦さない(これを埴谷雄高は自同律の不快と呼んでいる)、そのような存在(ドイツ語でdas Sein、ダス・ザインという)に対して挑戦する話(長編、長大の散文詩ということができる)だからである。

存在(das Sein、ダス・ザイン)に対して挑戦する以上、当然のことならが、主人公たちは、現存在(das Dasein、ダス・ダーザイン)のあり方から甚だしく逸脱をすることになる。

そのような主人公たちの登場する話を書いていた埴谷雄高は、安部公房のこの小説を理解したことは間違いがないと思われる。

この場合、ふたりの共通項は、Sein(存在)とDasein(現存在。「かく在る」こと)というドイツ語の概念を、よく知っていたということと、そのことに関係してある言語、言葉に対する深い関心と興味、または理解である。それは理解以上であるので、認識といってよい。

埴谷雄高は、その言語に対する認識を、一言、自同律の不快という言葉で言い切り、表した。

安部公房の言語に対する深い関心の持続は、最晩年に至るまで、若い時代から、全く変わることがなかった。

さて、話を浦島太郎の話、即ち安部公房の小説の構造の話に戻そう。

安部公房の小説は、どのような小説であろうと、上に述べた浦島太郎の構造、結構を備えている。これは、神話の構造である。

安部公房の小説は、色々と安部公房の様々な衣装を纏い、意匠を凝(こ)らされてはいるが、いづれも現存在からの逸脱と遁走と、異なる次元での出発点への回帰、即ち終わった地点での逆説的な出発という点では、繰り返し、神話と同じ構造をしているのだ。

カンガルー・ノートでは、浦島太郎の亀を助ける契機に相当するものが、脛(すね)からカイワレ大根が生えてくるという奇抜な着想であった。これを契機として、主人公は全く別の世界、病院という別種の世界に迷い込む。その世界を離れて戻ってくるときに、主人公は何かお土産を貰っている筈だが、それは何であっただろうか。

といったように、あなたも安部公房の色々な小説を読み解いては、如何でしょうか。

「かく在る」こと、即ちdaseinということからの逸脱と遁走の志を持った主人公たちであるというところが、安部公房に特有の、主人公たちの特徴である。

(この稿続く)


[岩田英哉]

2012年10月5日金曜日

安部公房誕生の秘密



昨日、安部公房の母、安部ヨリミの小説「スフィンクスは笑ふ」を読了して、A4で4枚のエッセイを書いたところです。

何か、今わたしにハート•クレインで起こったのと同じことが、安部公房について起こっているような気がします。

安部公房誕生の秘密を解き明かしたのです。

ただ淡々とテキストを読むことを何故人間はしないのだろうか。この本は今年の2月に刊行されたのだが、その間様々な識者、さまざまな読者が読んでいるにも拘らず、わたしが気付いたことに全然気付づいていないのです。余計な知識で頭を一杯にしているからでせうか。

もぐら通信第2号に、ご期待下さい。10月末に刊行します。

ご興味のある方は、このブログ右上の登録欄から、または改めて次のURLにて、もぐら通信をご登録下さい:

http://abekobosplace.blogspot.jp/


[岩田英哉]

2012年10月2日火曜日

「終わりし道の標べに」(安部公房)を読む:第1のノート


「終わりし道の標べに」(安部公房)を読む:第1のノート

 
安部公房の愛好した小説の形式が手記である。この処女作がその嚆矢であって、その後の作品の中に同じ手記という形式をとった作品が幾つもある。

何故安部公房は、手記という形式、ノートに書くという仮構を必要としたのだろうか。これは、リルケの「マルテの手記」を当然安部公房は読んでいたので、その影響だろうか。しかし、影響とは一体何だろうか。

言えることは、このような事である。

安部公房>書き手(語り手)>手記の世界>手記の世界の登場人物達>登場人物達の語る世界>.........

という階層構造が、安部公房には必要であったということであり、またこの階層構造を上下に昇ったり降りたり、 場合によっては、書き手のもう一つ隣りの複数の世界に触れ、入っていって、またこの手記の世界に戻って来るというように、作者の意識が垂直方向にも水平方向にも自在に往来できて、そうしてその世界が論理的にあることを作者に保障し、また保証してくれるからなのだと思う。

この手記ということから、わたしは10代の安部公房の孤独を思ってみる。確かにリルケに影響を受けたかも知れないが、利発な少年として、自分自身と対話を重ね、文字をノートに書き、言葉を十分意識して思索を重ね、思弁を重ねて考え抜く、実際に手記を書き、ノートを書いた少年の安部公房である。

ノートに書く、手記を書くということは、絵画ならば、自画像を描く事に等しい。(それは一体、誰の手記、誰の自画像なのであろうか。)

さて、この「終わりし道の標べに」という作品は、一体どのような自画像だというのであろうか。

はっきりしていることは、これは、そのエピグラムをみて明らかなように、安部公房の亡くなった友人(親友といってよい友人)に対する墓標であるということである。

この友人と生きた時間と空間の記憶を葬り、墓をつくり、墓標を立て、そうして弔うために、安部公房は墓碑としてこの作品を書いたということである。

わたしは、安部公房の作品には、どの作品もすべてといっていいと思うが、密かにこの弔うという感情が伏流水のように流れていると思う。もっと言えば、喪われた少年時代を弔う感情である。

この弔いの感情は、晩年になって、思いがけず、仏教のご詠歌として「カンガルーノート」という地面に吹き出して来る。

死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語
聞くにつけてもあわれなり
二つや 三つや 四つ五つ 十にもたらぬ嬰児(みどりご)が
賽の河原にあつまりて 父上恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり
悲しさ骨身をとおすなり
かの嬰児の所作として 河原の石をとりあつめ
これにて回向の塔をつむ

これは、死んだ子供を回向する、弔う歌である。そうして、ご詠歌という仏教的な色彩を帯びた歌は、わたしたち日本人の心理と意識の古層から湧いて来た歌である。

歴史や伝統というものに、あれほど頑なに(といっていいほどに)抵抗し、あるいは否定し、時間の外に構造的な建築物を打ち立てたいと願って仕事をしてきた安部公房が、晩年になって、このような極々古めかしい日本人の意識の古層に戻って来たということ、それもモチーフは10代、20代初期の意識を濃厚に表わしている「終わりし道の標べに」のモチーフと何ら変わる事なく、その古層に戻って来たということは、わたしには誠に興味深いことに思われる。

このご詠歌は、安部公房の祖父母とご両親の故郷、香川という空海上人、弘法大師さまの遺徳を直接受け継いでいる風土から出て来たものだと、わたしは思う。両親の血であり、その風土から生まれた伝統的な意識だと、わたしが言うと、もし安部公房が生きているとして、このわたしの言葉を否定するだろうか。

資料を読めば、明らかに安部公房は、このご詠歌を気に入っている、好きなのである。

さて、エピグラムを見てみよう。初版(昭和23年10月。真善美社)のエピグラムと最終稿(昭和40年12月。冬樹社)のエピグラムには相違があって、それを比較することで、安部公房が何を考えていたか、何をどうしようとしていたかを見る事にしたいと思う。以下、文庫本の巻末にある磯田光一からの孫引きを。

初版のエピグラム:

亡き友金山時夫に

何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
僕だけが帰って来たことさへ君は拒むだろうか。
そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につながるのかも知れぬが……。

最終版のエピグラム:

<<亡き友に>>

記念碑を建てよう。
何度でも、繰り返し、
故郷の友を殺しつづけるために……。

初版のエピグラムから明らかなように、安部公房は金山時夫という親友の死を弔うために、そうして記念するためにその墓碑として、この作品を書いたのである。

この墓碑銘から解ることは、安部公房がこの親友をとても愛していたということである。ふたりでともに理解し合った濃密、濃厚な時間と空間を共有していたのだと思われる。

この友も孤独であった。安部公房も孤独であった。その死を悼む事が、この親友の思想に反する行為であり、その殺人に加担する行為であるかも知れないとすら言っているほどに。そうして、それほど、ふたりの関係は純粋であったのだと思う。純粋であったとは、この世のものではなかったということである。それほど深い関係であった。

このとき、安部公房は、その親友を殺すことはできないのだ。しかし、仮にそうなるとしても、安部公房はその親友の死を、その友人に相応しい形で、即ち個人的な痕跡を少しも残さずに、しかし仮構された作品として残しておきたかった。

そうして、手記という体裁で、「終わりし道の標べに」という題名の小説を書いたのだ。

安部公房は、親友の死に至って、ひとつの道が終わったと感じだのだろう。それが題名の由来である。そうして道の終わりから、その地点に墓をつくり、墓標を立ててから、新たに歩き始めることを決意した。

しかし、それは何か新しいことを始めるということにはならない。その後の歩みはすべて、その親友の弔いであり、しかも個人的な弔いではなく、もっと普遍性を持たせて、従い上に述べた手記の論理的な構造を使って、一般的な話として、その喪われた経験、その空間と時間の思い出を新しいものとして仮構することが、安部公房にとっての、その後の仕事の、深く隠された意義であったのだと思われる。

最終版のエピグラムには、その意志の転換を見てとることができる。

何度でも、繰り返し、
故郷の友を殺しつづけるために

そのために、安部公房は小説を書いたということなのである。

この場合、もはや故郷という言葉の意味は、具体的な名前のある田舎の土地なのではないことは明らかだろう。

このエピグラムの後、小説の冒頭には、粘土塀が出て来る。

この粘土塀という形象(イメージ)は、その後も安部公房の小説に、幾つにも変形して、変奏を繰り返して現れ、ある時は壁になり、砂になり、他人の顔になり、迷路になり、箱になり、また箱ということから連想されるように、方舟になりして、繰り返し現れるのである。

「第一のノート 終わりし道の標(しる)べに」とある最初のノートの題の次に、次のような一行がある。

終わった所から始めた旅に、終わりはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ。何故に人間はかく在らねばならないのか?……。

この問いと、この問いに答えようとする意識は、安部公房のその後の小説の主人公達の意識である。

粘土塀は、次のように言い換えられている。

1。霧の中で重い乳色に身をすりよせて、追憶にまぎれ忘れられた崩壊
2。あの寂寥にはふさわしい無秩序な道の顔
3。其処(粘土塀)からは果てしもない氷雪の原が、何処からともなく去来する視野に、ときおり過去の、あるいは未来の、赤裸々な調律をのせて送りとどける。

更に文が続き、この粘土塀は、忘却だけが創りあげうる形象であると、実に明確に書いている。芸術家は、本当のことをいうものだ。あるいは、事実という現実について語るものだ。これは、飾った言葉ではない。

この粘土塀の前では、主人公は、「もう自己を断言することさえ出来なくな」るのである。

(この稿続く)

[岩田英哉]